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ヒマラヤのふもとの小さな村で 【ムックマム13号より】

以前、私はインドのヒマラヤ山脈の南に位置するヒマーチャルプラディッシュ州の山岳の中の小さな村に長期滞在した経験があります。温泉のある避暑地として有名なその村は、晴れればヒマラヤの雄大な山々を一望できる豊かな自然環境に恵まれたところです。厳しい暑さと湿気に悩まされる下界とは程遠く、空気が澄んでとても過ごしやすい村でした。縁あって、あるインド人一家(夫婦と子ども5人)の一室を借りることができた私達一家(つれあいと当時2歳の子ども)は、まきストーブで暖をとり、町のマーケットへ通っては米や野菜、小麦粉などを買い込んで自炊する生活を始めました。これという目的も持たずにただゆったりとした時間の流れの中で、土地の人々と触れ合い、この土地の暮らしを体験してみたい、そんな行き当たりばったりで気まぐれな旅人だった私ですが、そんな暮らしの中で発見したことを、思い返して書き連ねてみたいと思います。


その土地は農業が主たる産業で、多くの自給自足に近い暮らしをしている人々は、麦の収穫期になると、それぞれの麦畑で麦を刈り入れ、牛の背にたばねて乗せ、家まで運んで庭で脱穀をするのですが・・・・、私の借りていた家でも、子ども達とお母さんで収穫してきたどっさりの麦が中庭にばらまかれ、主にお母さんが2~3頭の牛の尻を棒でたたいて中庭をぐるぐる回らせて脱穀していました。2階に部屋を借りていたので、渡り廊下からその風景をじっと見ていると、まるでタイムトンネルをくぐって、戦前の日本の稲作を垣間見たような不思議な気持ちでした。そうこうして、とれた麦を共同の粉引き場で粉にし、その全粒粉を丸い平焼きパンにしたものがこの土地の主食でした。以前から自然酵母のパン作りに興味のあった私は、この家の娘さんにパン種(天然酵母)の作り方を聞いてみたのです。彼女は快く承知してくれました。さっそく台所に行って自家製のパン種を入れておく素焼きの壺を持ってきて、英語まじりの身振り手振りで作り方を教えてくれたのです。
それは当時の私には驚くほどにシンプルなものでした。
まず、壺の中にひとにぎりの全粒粉と、棒で溶かしてかき混ぜられる程度の水を入れます。それを毎日かきまぜて3~4日すると、空気中の野生酵母の力でプクプクと発酵してくるのです。これを元種にしてパン生地をこねるわけです。ちなみに日本に帰って、このやり方で天然酵母作りに挑戦してみたら、みごとに失敗に終わっています。空気の力で小麦粉が発酵するわけですから、パン作りがいかに土地の自然環境と結びついたものであるかがわかります。ヒマラヤの山々から来る幽玄な“気”が、この土地のパン作りにも大いに影響しているのだと思います。たぶん日本でも豊かな自然に恵まれた空気の澄んだ場所であれば、十分発酵すると思います。そして、その土地でしか味わえない素朴な味わいのパンが焼けるに違いありません。

パン種作りを教えてくれた彼女は、また台所へ行って「これを食べろ」と自家製のパンを1枚私達に分けてくれました。まきストーブでこんがりと両面焼かれたそのパンは、言葉では言い尽くせないくらい素朴で、味わい深いものでした。
インドの習慣では、違う階級(カースト制)の人とともに食事をしないので、外国人である私達は違うカーストとされ、残念ながらともに食卓を囲むことはできませんでしたが、彼女の説明では、このパンはうずら豆(日本の金時豆を少し小さくしたもの)入りのカレー(香辛料だけで作った自家製)につけて食べるのだそうです。このカレーも試食させてくれたのですが、本当に豆だけのサラサラしたカレーで辛くもなく、家庭の味ってこんなにいいものかあーとすごく感動したのを覚えています。この地方のパンと豆のカレーは、ちょうど日本ではご飯と味噌汁のように食の基本パターンだったわけです。
今も、米こうじの力を借りて、天然酵母のパンを焼き続けている私にとって、このインドでの体験は、私の体の中で生き続けている気がします。


このように土地に適した農業を営む中で収穫した作物を調理していただく、ということは時間も手間もかかるようだけど、そうすることが当たり前で、暮らしそのものが食と大きく結びついているようでした。それは貧しいどころか、自然のリズムで生きる人々の力強さ、豊かさを感じます。


日本は飽食の国と言われて久しいですね。
最近では、日本の伝統食を見直そうという動きが目立ってきました。講演会に行くなり本を読むなり外側から教えられることも大切なことだと思います。なぜなら飽食に慣れ、本当に食べたいものは何か、自分の内側から感じ取ることができない人々がとても多くなってきたと思うからです。
私自身について言えば、食に限らず、いろんな面で複雑化した日本にいて、本当の自分自身を見つめ直したくて、インドにまで旅立ったわけです。たしかに悠久の時間の流れに身を置く中で、この紙面では書き尽くせないくらい多くのことを学ばせてもらいました。


話をこの村の暮らしに戻したいと思います。この村では、どこの家庭でも機織り機があり、山にいる羊の毛を刈って糸につむいだもので織物をしていました。お父さんや子ども達(男の子)の着るコートやマフラーや帽子などは、女性達が手作りしていたようです。また女性達の衣装はというと、羊毛で織ったたいへんカラフルな一枚の毛布のような布を一本のヒモを使って、うまく体に巻きつけていました。パットゥと呼ばれる民族衣装で、これは家庭では織られていなかったようです。
この衣装に憧れていた私は、この家のお母さんからたいへん高額だったけれど、思い切ってこの布を手に入れました。娘達が巻き方を教えてくれ、一枚の布が衣装に変わっていくのがとても不思議でした。ただ、ズボンやセーターの軽装に慣れた身には少し重たくも感じました。


ところで、私がこの村で一番好きだった場所は、共同洗濯場です。
石段の多いこの村では、家も坂の上に建っていることが多く、7~8軒で一つの集落を成していたと思います。家から石段を降りて行ってすぼまった所には、共同の洗濯場があります。大きな四角い石で囲まれ、大きさは四畳半くらいだったでしょうか。水道のような蛇口はなく、石と石の隙間2~3ヶ所から一日中水が流れています。朝9時頃ともなるとカラフルな民族衣装を身にまとった女性達10人くらいがそこに集まって洗濯を始めます。石を洗濯板にしてごしごし洗ってはすすぐ、という手作業をしながら、大きな声で何やらずーっとしゃべっているのです。地元の言葉なので私にはよくわからないけれどそのにぎやかなことといったら日本の主婦の井戸端会議どころではありません。でも同じ女性として、こうやって他愛ないことをしゃべりながらごしごし洗濯するというのは、単純に楽しいものです。皮膚の色も服装も言葉さえも違うけれど、笑顔だけは絶やさずに洗濯していた私を仲間のように受け入れて、場所を譲り、水を使わせてくれる彼女達のふところの深さに、自然にいだかれて生きる人々の素朴なやさしさを感じました。
日本では、ボタン一つで脱水までしてくれる全自動洗濯機が出現して久しく、多くの人々が手早く洗濯をすませることができるようになりました。でも、あの村では今も女性達はカラフルな衣装を身にまとい、洗濯場に行ってはかん高い声を響かせ、いそいそと洗濯に興じているのでしょう。


コミュニケ―ションの場としての地域がなくなりつつある日本の現状からは程遠いあの光景が、とてもまぶしく心の中によみがえります。戦後の高度経済成長期に成長を共にした私があの村の平和な人々の暮らしから学び得たものは大きかったと思います。出逢った人々、雄大な自然、すべてに手を合わせたくなるくらいです。
今の私の生活はというと・・・家族とともに豊かな時間を持ててはいると思うのですが、何かと忙しくなりがちで、ゆったりとした時間の流れに身を置き、本当の心の声に耳を澄ます時間を持ちたいと願う日々です。

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