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第15回 本当は誰もがインクレディブル

 話題のアニメーション映画『Mr.インクレディブル』を見に行った。空を飛び、馬鹿力をふるい、手足がどこまでも伸びるといった能力を持つスーパーヒーローと呼ばれる人たち。彼らは、かつてその特殊能力を使って、世助け・人助けで大活躍をしていた。警察も手こずるギャングを易々と捕まえ、ビルから飛び降りた人を間一髪で助ける。かと思うと一人暮らしのお年寄りのために飼い猫を捕獲してやる。大きなことから小さなことまでなんでも解決。政府も大いに助かっている存在だった。ところが、やむをえぬ事情からスーパーヒーローが社会正義を名目に活動することが法律で禁じられてしまう。そこで彼らはその素性を隠して一般市民として暮らし始めるのだが、それから15年・・・。


 ミスター・インクレディブルは保険会社の営業マン。ところが、困っている人についつい保険金を与え過ぎては会社の営利を顧みないと上司に叱られる。人助けを生き甲斐とする彼が、金、金、金で、目の前の人の幸不幸に鈍感になることを求められ、生きた屍のように仕事をこなして妻子を養っている。
 結婚相手のミセス・インクレディブルもまたかつてのスーパーヒーロー。現夫とともに数々の戦いを勇敢にくぐり抜けてきた女性だが、今では中学生から赤ん坊までの3人の子育てに追われる普通のママ。一般人として社会に適応することを心がけ、夫や子どもたちにもそう仕向ける。そうでないと今の時代では生きていけない、許されていないのだからと。


 その2人の間に出来た長女のバイオレットは、だらりとたれた前髪の隙間から大きな瞳を片目だけ覗かせている陰気な中学生。自分と自分の家族の「変」さ加減を恨み、「普通になりたい、恋がしたい」と訴えるが、好きな男の子とは口もきけない。顔を隠し、自分を隠し、時には姿も隠してコンプレックスのかたまりで生きている。
 長男のダッシュはやんちゃ盛りの小学生だが、特殊能力の発覚を恐れて悲願のスポーツはずっと禁止され、もてあました能力はいたずらに使われるばかり。おかげで校長からの呼び出しとママのお小言の繰り返しの毎日だ。


 こうしてインクレディブル一家は、赤ん坊を除いてみんな「変」な人たちである(実はこの赤ん坊も特殊能力の持ち主であることは最後に分かるのだが)。「変」であることを世に隠し、「普通」を装って生きているのは結構つらい。自分の持ち味であり、才能でも魅力でもあるものを押し殺し、否定することは、自分が自分であることを諦めることにほかならないからだ。だがここでふと思う。私たち一般人だって、実はほとんどの場合みんなこうして自分を押し殺し、普通を装って生きているのではないだろうかと。そうでないと生きていけないから。裁かれてしまうから。裁かれる?誰に?世間一般という漠然とした、だがこの上なく巨大な抗しがたく思われる「力」に。


 そして私たちもまたコンプレックスのかたまりの中で、自信を喪失し、いじいじと他人を羨んで生きていないだろうか?私なんてどうせこんなもんだからと自分に枠を作り、家族がいるから、社会が許さないからと理由づけをいっぱい作って、うっぷんをいたずらにぶつけるくらいならまだしも、生きた屍になってただ機械的に毎日を送っていないだろうか。


 ミスター・インクレディブルは時折、かつてのスーパーヒーロー仲間と警察の無線を盗聴しては、身を隠したまま事件を追いかける。世助けしたくてうずうずしているのだ。けれどももちろんこのことは家族には内緒にしていた。ところが打倒スーパーヒーローを目指すスーパーヒーローもどきの青年との戦いに巻き込まれてしまい、結局、奥さんがそれを助けに行くことになる。スーパーヒーローの衣装をつけた途端、昔の勘を取り戻した奥さんは、たまたまついて来てしまった長女バイオレットと長男ダッシュの持てる能力を信じ、勇気を与え、愛をもって励ましながら共に戦う道を選ぶ。そして苦戦しながらも最終的に勝利を収めた時には、4人がそれぞれに新しい自分に生まれ変わっているのを見ることになる。いや、正確に言うならば「新しい」ではなく、「本来の」自分になっていたのだ。


 自分の持てる能力が大いに役立ち、愛と勇気が実を結ぶのを自分自身の中で体験したバイオレットは、幽霊のようだった片目のヘアスタイルをやめ、髪を耳にかけて顔をしっかり出すようになった。そして、チアリーダーとして活躍するチャーミングな彼女に、ついに、かつて眺めるだった片思いの男の子からデートのお誘いがかかる・・・。
 ダッシュも、生まれて初めて自分の能力を存分に発揮する機会を持てたことで、人間としての余裕が生まれる。目にも止まらぬ速さで走ることができるにも関わらず、短距離走の大会では上手に2位を勝ち取ってそれで満足することができるようになったのだ。


 どんな「変」な傾向や能力の持ち主であっても、自分が自分であることを認められ、自分らしさを発揮できる場を持つことができると、人間は社会に適応でき、また社会のために自分を奉仕しようとするものなのかもしれない。
 考えてみれば、私たちは誰もがインクレディブル(ありえない)能力をそれぞれ持った存在なんじゃないだろうか。それはいわゆる「役立つ」能力ではないかもしれない。勉強に役立つ、社会に役立つ、仕事に役立つ、家事に役立つ、そういう能力だけを私たちはとかくまっとうな「能力」として認めがちだけれど、私たち人間には計りがたい、もっと大きなところで役に立っている能力がこの宇宙には無限にある。山河草木から石ころまで、すべて意味があってそこに存在しているのだから。


 そういう視点から見ると、私たちの持つどの性向や感情や力が、どこにどう生かされ、働きかけているかは私たちが合理的に把握しきれるものでなく、ただ私たちがこうしてここに生命を受けているという事実そのものが既にインクレディブルで、私たちはそのすごさを受け容れ、徹底的に自分の命を肯定し切って生きていくしかないんじゃないかと思うのである。


 自分を受け容れられない理由はいくらでもある。道徳や世間体が「もっといい人」になることを要求してくるし、社会常識が「こんなことをしちゃいけない」と歯止めをかけてくる。「もっとこうでなくちゃならない」「こう感じちゃいけない」エトセトラ、エトセトラ。自分が心の底で感じていることまで否定し、歪曲し、自分でない何かに自分を合わせようと必死で繕って生きている。だから命が萎縮してしまう。


 本来ならすべての命が輝くはずなのに、命の宿る心と体がその命を否定して生きているから、何かが病んでくる。体が病む人、心が病む人・・・。そして病んだ者同士が徒党を組んで、その窮屈な枠をくぐり抜けて生きようとする人の足を引っ張り、批判し、自分たちの正当性を確立すべくさらなる強固な社会常識を作り上げてゆく。つまらないことではないか?こんなことは何もかもやめて、さっさと「変」な人になってしまった方がいい。「普通」でいる必要なんかどこにもない。その「変」さに徹してしまった時、インクレディブル一家のように、自己肯定感と自信と魅力と愉しさと平和と自由が一気に実現されるだろう。そう、一人ひとりの存在の中、命の中で。

2005年1月12日

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