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第12回 田口ランディ「コンセント」を読む

 人に紹介され、なんとなく読んだ一冊だったが、なかなか面白かった。朝倉ユキという主人公は東京に住む独身の女性だが、仕事仲間だろうと行きずりの男だろうと来る者拒まず寝る女である。仕事は株の相場についてコメントするというものだが、金には興味がない。ミステリアスでひょうひょうとしたキャラクターに思えるが、ちょっと重い子ども時代と異常なと形容できる学生時代を背負っている。

 ストーリーは彼女が兄の死を知らされるところから始まる。兄は子ども時代から社会になじめないところがあり、中学生になると母に暴力を振るい始める。大人になっても外に出て働くということは出来ず、家族の中でお荷物として存在していた。それをユキが東京のアパートに引き取って更生を試みたのだが、結局はユキもやがて兄を見捨てるような形になってしまう。そうして失踪した兄は、自分で借りた都内のアパートで緩慢な自殺ともとれるような死に方によって静かに生を閉じたのである。そして、その部屋の中には、コンセントにつながったままの掃除機が置いてあった。

 ユキはこのコンセントにこだわり続ける。そこに兄の生と死を説く鍵があると直感し、その謎解きの過程でいろいろな人物に出会っていく。いや、再会していくと言った方がいいだろう。学生時代にカウンセリングの実習を受ける中で異常な性愛の仲となった国貞という教授。十年ぶりに彼のカウンセリングに通い、彼とのいまわしい記憶がよみがえる中で、兄の問題とシンクロした異様な夢をくり返し見続ける。一方、その同じキャンパスで同級生であった本田律子というシャーマンを研究する女性とも再会し、いわゆる合理主義者だった律子が霊的な問題をテーマにしている姿に驚きを覚える。また、律子の紹介で、やはりもと同級生である精神科医山岸峰夫とも会うことになる。

 この山岸という男性は、トランスパーソナル心理学の畑で活躍している人物である。トランスパーソナル心理学というのは超心理学とも訳され、平たく言えば、超常現象を認めた上で人間の異常な行為や心理を研究する分野である。朝倉ユキはこれまでこうしたオカルティックなものは認めずに生きてきた人物だ。本田律子に霊能力者を紹介された時も、「これまでの私だったら笑ってとりあわなかっただろう」と語っている。だが、人にはそうした超常的なものを受け入れずにいなくなる「時」というのがあるのかもしれない。律子が友人の発狂と自殺をきっかけに受け入れていったように。

 ユキは、兄の死によって「コンセント」というキーワードをつかんだ。そして、コンセントとは、社会とつながっていくためのエネルギーとなる外的刺激を取り込む装置であるということを理解してゆく。人はコンセントから取り込むエネルギーによって社会と協調し、感応する力を得る。だが、特異な感受性のためにこの世で生きることに極度の困難を覚える人間にとっては、コンセントから流れてくるものは苦痛を増やすだけだ。むしろコンセントを抜いてトランスしてしまった方が本人は至福にいたることができる。外からは自閉と見えるその状態も、本人にとっては解脱の境地の体験なのだ、と山岸は説明している。

 薬にも酒の力にもよらず、自由にトランスしてしまえる才能を持つ人々がいるという。兄もまたそうであったのではないか。あちらの世界にひたっているのを習慣とするうちに、やがてこちらの世での生が軽く軽くなっていき、さしたる無理もなく自然にあちらの世界に移って行ったのかもしれない・・・・・・とユキは考えるに到る。兄の死の姿はそのことを伝えているのではないかと。

 こうして生前の兄のことを、その兄の静寂な死を理解していく過程で、ユキ自身のこれまでの世界観、価値観も大きく揺るがされてゆく。これまで社会のお荷物、落ちこぼれとしか見ていなかった兄が、まったく異なった様相で浮かび上がってくるのを見たためだ。

それに、兄が亡くなって以来、何度となく自分の前に現れる兄の亡霊。それは亡霊とか幽霊と呼ぶにはあまりにリアルでなまなましく、何かの錯覚とはとても思えないものなのだが、その現実をうまく受け入れることができない。また兄の死体があったアパートに残る死臭を嗅いで以来、死をはらむ人から漂うかすかな死臭を嗅ぎ分けられるようになったことへの困惑。律子の語るシャーマンの話や発狂した友人の話。精神錯乱や妄想には科学で計れない意味があるという山岸の話・・・・。

すべてはユキの「時」を狙って、まるで予定されているかのように次から次へと、あるいは同時に降りかかってくる。ユキを追い詰め、問い詰め、それまでの常識的な世界認識のままでいることを許さない状態に追い込んでゆく。それはまるで発狂直前の人間の体験のように。そしてついにユキにも訪れるのだ、その「時」が。それは非常に烈しく極端な形でやってくる。

律子の説明によれば、沖縄のユタがユタになる前段階として非常に錯乱した精神状態を通過する。警察に通報されて即刻病院送りとなるような錯乱状態のことだ。だが沖縄には、そういう神懸りになった女性には特別の使命があるとして、受け入れてしまう伝統がある。そうして錯乱の後、人々を癒す仕事に就くのである。律子のかつての友人もある時発狂し、強制入院させられ、薬漬けにされた後、自ら命を絶ってしまったのであるが、彼女が住んでいたのが東京でなく沖縄であったら、どういう顛末を辿ったであろうか。これが律子の転機となった出来事である。だが律子は頭でしか理解していない。自分の理解を自分で信じきれていない。そこを越えるにはもう一つ、大きな出来事あるいは根本体験を通過しなければならないのだろう。

ユキの大転換は、老人の幽霊を追って思わず降りたバス停からさ迷い歩くうちに起こる。「カイタイセヨ、カイタイセヨ」幻聴だか何だかわからないものに捉えられ、その声から逃げるように町中を駆け抜ける。「カイタイセヨ、カイタイセヨ」だが、逃げ切れない。最後の最後まで自分の理性にしがみつき、自分自身の解体に抵抗しようと試みるが、もう逃げ切れない。皮膚感覚が変容し、この世のあらゆる振動を拾い集めるようになってしまう。制御することもできない。

その無数の振動の中に兄を見つける。兄の周波数にチューニングすると、ようやく兄の置かれていた生を実感することがかなう。それは世界のすべての振動が、感情が自分の中に止めようもなく流れ込んでくるおそろしい生の状況であった。兄が生前コンセントを時折抜かずにいなかったことも、やがて完全にコンセントを抜いて生きることをやめてしまったことも、今のユキには何の不思議もなく理解できた。

やがて蓄積された記憶の断片が怒涛のようにユキの中に流れ込んでくる。父に打ち殺された犬のシロ、俯いたまま流し台に向かう母の背中と首筋の細さ、言葉の毒を吐く父、鉛色の兵舎のような学校、子ども達のありとあらゆる感情が渦巻く教室・・・・これは兄の視点である。ユキは、兄の視点は愛の視点であったと理解する。

狂おしい体験。兄との一体感。世界中の感情が無防備に入ってくるその苦痛に耐えかねて、ユキもまた自分のコンセントを抜く。そして、静謐な無の世界が訪れる。肉体を離れて純粋な意識として漂い、そうしてついに世界を理解したと感ずる絶頂に達する。
兄だけでない、世界との一体感。世界とのセックス。あらゆる震えと感応することができるようになったユキは、もはや正常な精神状態ではない。すべてを捨てることの快感と至福の恍惚にさらされ、ユキはつけている指輪も、時計も、洋服までも脱ぎ捨ててしまう。公園の片隅ですっ裸になって高らかに笑う女の笑い声はいつまでも止まなかったろう。
最後のぎりぎりの瞬間に、ユキの解体を予測して「何かあったら俺の病院に来い」と暗示をかけていた山岸に携帯電話をつながなかったら、間違いなく精神病者として強制入院、薬漬け、社会復帰困難というルートを辿ることになっていたに違いない。

さて、錯乱状態が治まったユキが果たすことになった社会任務あるいは使命とは何であったか? ここが田口ランディならではの、読者をニヤッとさせるか、げげっと嫌悪をもよおさせるか、理解に苦しませるかという一筋縄でいかない結末・・・・・・彼女の個性的テーマの見せどころだ。
ここで私達は注意深くならなければならない。世界と一体になりあらゆる振動とシンクロすることができるようになったユキが、おそらくあらゆる現象をあるがままに善悪・優劣をつけずに受け止めることができるようになったと同じように、私達もひとたびこれまでの世界観や価値判断というものを捨てて、この結末を読み取らなければならないだろう。そうでなければ、ランディがユキという主人公を通して私達に体験させようとした解体というものの奥義を取り逃してしまう。ユキの解体、ユキの錯乱、ユキの悟りは私達にとっては疑似体験でしかないが、小説というものが私達に貴重な時間を割かせるに値するものになるとしたら、それは、読み手が登場人物の体験を無私になって追体験してみることによるしかないだろう。

ユキは現代のシャーマンとなった。律子は「シャーマンも時代とともに進化しなければならない」と語っていたが、ユキが担った役割は、外面的には娼婦という職業である。一万円という安値でマンションの一室に男を通し、男に生きる力、生命の振動を与える。躊躇する男の服を脱がしながら「可笑しくて仕方ない」という朗らかさの中で、女性の陰部は世界のエネルギーの供給口であると話して聞かせる。弱った男達を癒し、勇気づけ、生きる力を与えてきたでしょうと。そして自分のコンセントに男のプラグを差し込みながら、この男に私は何を与えることができるだろうかとわくわくしている。

神聖娼婦というものが古来から神社仏閣等に存在していたというのも、不特定多数の相手に体を売るという行為から私達が受ける印象だけからは想像のつかない深い事情がこの現実にはあるからだろう。セックスという淫靡とも神秘ともとれる行為を通して繰り広げられることは、私達が埋没している日常感覚からだけでははかりしれないのかもしれない。私達は「売春」という言葉の響きだけで、それをいかがわしいものや不幸なものとして早々に判断を下してしまいがちだが、さてその根拠と理由を説明しろと言われると、意外に理路整然とは答えられないものである。

このちょっとセンセーショナルな結末によらず、この小説に出てくる様々な断片は、私達を日常性や既存のモラルの中に安住させておかない。社会の役立たずだった引きこもりの兄こそ愛の視点を持ち続けた存在であったこと、精神錯乱と見まがう悟りの瞬間、売れっ子教授の変態性・幼児性、完璧な理論体系を持ちながら自分で信じていない研究者、何の罪悪感もなく複数の男と寝る主人公・・・・。

ユキの聞いた「カイタイセヨ」の声は、読者への呼びかけでもある。私達の意識が所有するものすべての解体。価値判断、モラル、常識、社会通念、安っぽい良心、世界認識、エトセトラ。私達が無意識のうちに所有しているこれらのもののうち、果たしてどれだけが、究極の必要性という篩(ふるい)の目に残ることができるだろう?

私達は、社会の秩序や平和という概念とも整合した自分自身のモノサシを作りあげることが得意である。何事かにこだわりを持っている人は持っている人なりの、持っていない人は社会常識というモノサシを持っている。そして、この価値観の枠組みのために、私達はお互いに窮屈で、生きにくい社会を作ってしまっているように見える。より良い社会という同じベクトルの理想を持つ者同士が対立し、友情を求める者同士が陰口をたたきあう。

これだけ価値観の多様化した現代にあって、誰とも同じ価値観を共有するとか、違った価値観を理解し合うというのは事実上無理なことであろう。ならば、それでもなお自分の理解の及ばない状況や行為に対して、自分のモノサシで計ろうとすることはどういうことになるのか?

生きて暮らしていく以上、判断や選択はたえまなく必要なものであるけれど、融通のきかないモノサシは人の世を生きにくくするばかりでなく、自分自身をも狭い世界に押しとどめてしまう。それは時折自分を苦しくする。朝倉ユキのような劇的「カイタイ」は望むべくもないけれど、私達もまた日常性の中から小さな「カイタイ」を指向し、真の意味での自由というものを手にしてゆきたいものである。


2003年7月15日
初出『虔十』(2000年12月発行)

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