~暮らし・子育て・生きることを考える~ムックマムへようこそ!

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

第10回 女の生きる環境は変わった

昔に比べると家事労働の負担は減少した。それでも主婦達の忙しさ大変さは結構なものだ。特に小さな子どものいる家庭での負担感やストレスは、近年一層増してきているようにさえ見える。その理由を、母親の質の低下ということでくくろうとする論もあるけれど、それはちょっと違うんじゃないかという気がする。

もちろん自分のことしか考えてない話にならない母親というのもいるけれど、それは現代に限ったことではない。そういう特別な存在は別として、平均的な母親ということで考えれば、私は個人の質の低下よりは、母親が置かれている社会や精神的な環境の変化が通常思われている以上に大きいことが根底にあると思う。

もう随分前のことになるけれど、幼い娘2人を連れて田植え体験イベントに参加したことがある。昔式に腰を折って苗をひとつひとつ植えていくやり方だったが、参加者は多く範囲も限られていたので、昔の農家の人達の苦労をほんとうに追体験したわけではない。だからちょっとズレているところもあると思うが、この時、私はある発見をした。それは昔の女性が感じた苦労と、現代の女性が感じている苦労とはまるで質の違ったものだということだ。

そんなの当たり前だ、今さら言うほどのことでもない、と言われてしまえばそれまでだけれど、そのことを身にしみて感じたのである。例えば、この日覚えた疲労感は、肉体的には普段めったに味わうことのないヘビーなものだったけれど、ある種非常に健全なものだった。青空の下で額に汗して働いていると、よけいなことや下手な考えも万事休して、一種の恍惚状態になる。そして、目の前で広がっていく緑のカーペットは達成感と充実感を確実に与えてくれるものだった。

それは普段覚える疲れとはまるで質を異にしたものだ。やらなきゃいけないことは山積で日々それをこなしていくことは昔も今も変わっていないが、現代の家事・育児は妙に神経ばかり消耗する構造になっているような気がする。収集しきれない情報は漠然とした不安と焦燥を与え、やれどもやれども報われない思いを残させるし、地域とのつながりが薄れて家族という単位で自律的な営みが求められ、物理的にも精神的にも孤立してガスが溜まりがちである。

労働そのものが職人仕事から奴隷仕事に変わったということもある。技術を必要としない部分が大きくなったことで、例えば、いかに上手に手ぬぐいを洗濯するかとか、水加減火加減を調整しておいしいご飯を炊き上げるかとかといった工夫や喜びの部分がなくなり、年季から得るはずの自信を失わせ、勘や直感よりも知識が重んじられ、手足より脳みそをくたびれさせるようになっている。

子育てにしても、紙おむつやベビーフードが出回ったことで昔よりラクになっていると思うとしたら、とんでもないことだ。たしかに延々と続く農作業の合間に赤ん坊の世話をするのは大変だったろう。でも一方から見ると、授乳やおむつ替えは、母親にとって肉体労働からしばしの間解放され、わが子を堂々と抱ける貴重な時間であったろうし、そんな中で接する子どもは無条件に愛しかったろうと思う。24時間365日、母子一対一体制の中で、疲労といらいらを克服しつつ子どもに向き合わねばならない今の核家族家庭の息苦しい関係性とは、苦労の質がまったく違う。どっちがより大変かという問題じゃなくて、質が違うのである。

子どもというのは手がかかる。手をかけなくても目をかける人は要る。来る日も来る日も、朝から晩まで、平日も休日もなく、子どもとずっと一緒に過ごすということがどういうことなのか。1日30分でも、週に1回でも、いざという時だけでも子どもを見てくれるアテのある人には、この状況は想像が及ぶまい。地方より都会の方が育児ノイローゼが深刻なのは、この“息抜く瞬間のない”状況の中で暮らしていかざるを得ない人が多いことにある。子どもに目をかける負担が、1割でも2割でも母親以外の誰かに分担されれば、子育ての負担感は信じられないくらい激減するものである。この1、2割の意味は質的に大きい。

そこで、ここを埋められずにいる母親達はそれでもなんとかやっていくために、テレビやビデオに子守りをさせ、紙おむつやベビーフードを使い、インスタント食品やお惣菜で食卓を飾る。世間で言われるところの“手抜き”だ。そうはすまいと頑張ると、今度は子育てと家事以外の何にも関わる余裕がなくなり、ただただベビーシッターと家政婦の役割りを担ってへとへとになっていく。今のような時代には、学ぶ時間、考える時間、そしてくつろいだり楽しむ時間というのがより必要とされているのに、そういうことを全部後回しにせざるを得なくなと、やがて精神的な豊かさを失い、バランスを崩してしまうこともある。

昔は家事も農作業も今よりずっと過重なものであり、間違っても現代人の方が大変だと言うつもりはない。でも、現代がせちからい社会になり、労働の質が非自然的になり、模範が見えない時代になってしまったことは事実であり、しっかり見据えるべきことだと思う。その意味で、女の人達が生きていく環境がまるで変わってしまったことはもっと強調されていい。もはや過去の時代と比較してどうこう言っても意味がない。ところが日本の社会には、まだまだ古き良き女性観が、男性のみならず女性の中にも根強く残っていて、このギャップが今現在、家事・育児であえいでいる女性達を必要以上に心理的に追い込んでいるように思えてならない。

今のお母さん達が短気で、薄情で、母性愛をなくしたわけじゃない。上の世代からはわがままと評され、夫からは母性がないとののしられ(そのくせ自分は親の自覚があるのか?)、マスコミからは学歴だけのマニュアル・ママと汚名を着せられ、それでも子どもに三度三度の飯を食わせて、死ぬほど眠くても夜中に起きてウンチの始末をして頑張っている。それなのに子どもに何かあると、全面的に母親の問題のように言われ、父親や祖父母はほとんど問題視されない。たとえ母親の存在の大きさが否定できないとしても、お母さんは独りで生きているんじゃなくて、夫や家族や地域との関係性の中で生きているのだから、独立して語るのは本当は変な話だ。

うちの子ども達が今よりもっと幼かった頃、子どもを連れていると、よく年配の人から「今のお母さんは大変ねぇ」と言われた。「昔は子どもなんか放ったらかしだったけど、それでもたくましく育ったわ」とか、「今はいろんなことがあるからねぇ。昔は何にも考えなくてよかったけど」ということらしい。時間がたって当時の苦労を忘れてしまったということもあるだろうけど、たしかに言われてみれば、いくら昔の人達が心豊かでおおらかだったとしても、今のような世の中だったら5人も10人も育てられたとは思えない。

そんなこんなを考えていくと、現代の女性はもう過去の女性の生き方、暮らし方、子育て、母親像、家庭観・・・というものとは決別して、新しいあり方を創造していかなくちゃならないということを強く思う。「昔に戻れ」といったスローガンも見かけるが、社会的にも精神的にもすっかり変貌してしまったことを考えれば、表面的な懐古主義はいずれ違った問題を生み出すだろう。それはもはや現代人の精神性にマッチしていないのだ。先人から学べるものは学びつつ、今生きている私達一人ひとりの心の中から生まれてくるものに目を向け、これまでにない価値観や生き方を模索していかなくちゃと思う。そうでないと、自分も子どもも本当の意味で心地よく、充実した人生を送っていくのは難しい。とかく過去の道徳にしばられ、それを外れることを母親失格、悪妻、悪女と受け止めがちだが、もうそういう不自由な縛りは、まず女性から捨てていかなくてはと思う。

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。