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第9回 「ソ」の世界

 高橋巌先生の講演会に久しぶりに参加した。「神秘学から見た音楽」。音楽は人間の精神性を直接表現し得る唯一の芸術だと考え、その試みに魂を注いだドイツ浪漫派の音楽家たちと、それを理論的に証明しようとした哲学者たち。彼らの業績はもちろんだが、彼らの情熱について、淡々とだが言葉を選びつつ敬意をもって話す巌先生の様子もまた、形而上的な仕事に極限まで自分を投じた魂を私たちがどう扱うべきかを教えられるようで、思いがけず胸を打たれた。

 ドイツ浪漫派の思想の根底には、宇宙の出発点は内面世界にあり、物質世界はあとからできたものだという確信があったという。これはビッグ・バンの宇宙創生説とは反対の発想である。そしてこの発想の側に立つと、私たちが日常感じている「定まった外なる世界にある時間・空間」という感覚はゆらぎ、内面世界にこそほんとうの時空は存在しているという新しい感覚が生まれる。『ヨハネ福音書』の冒頭にある「初めに言葉ありき」。この謎めいた字句はおそらく言葉どおりに解釈すべきなのだ。最初にあったのは内的世界。私たちが通常目にしている外的世界は、そのあとに生まれたものでしかないということを、実際、誰が否定しきれよう?

 そして、そのような認識に立つと、宇宙に充満するエネルギーは、そこに存在する叡智によって、一瞬たりとも留まらず、たえまなく流動し、生滅させられていると知るようになる。音楽は、没頭してそれを聴くならば、その叡智のはたらきを彷彿させてくれるものだということだった。
 何曲かの演奏がそんな説明の間、間に流された。凝縮された感動的な体験が私の中に起こった。新しい聴力を得た私の耳は、作曲家たちの生きた魂を全身全霊に直接送り込む入り口と化し、曲が、ただの曲でなく、一人の人間の(あるいは時代全体の)うめきや、苦悩や、歓喜として体じゅうにビリビリビリっと響きわたったのだ。ドイツ浪漫派の精神は私の中にも生きているということを知った。そして近代、現代の音楽になると、より私の精神の色彩と合致していて、それは私自身の魂を見るかのようだった。


 さて、音というものが本来持っている不思議さについての説明の中に、「ソ」という音の特性があった。一度‐五度というのは「空虚五度」といって、わざわざ「空虚」という言葉を付すとおりに、たとえば「ド」と「ソ」の二音では、なにか物足りない、ぽっかりした響きが広がる。そこに三度「ミ」の音が入ると、「ドミソ」の安定した(と我々は感じる)和音と成ることができる。三度というのは個人の内面世界そのものであり、近代になってからよく使われるようになったらしい。一人ひとりの人間が独立して世界に向き合う時代になったのだ。ちなみに太古は一度‐七度を聴くことで脱魂体験(エクスタシー体験)をしたというし、一度‐五度は霊的なものを表現しているという。なるほど、言われてみるとそんな気がしないでもない。

 それはともかく、「ソ」というのは「もう戻れない音である」と巌先生はおっしゃった。「ド・レ・ミ・・・」と行くと、「ミ・レ・ド」と戻りたくなる。「ド・レ・ミ・ファ・・・」と「ファ」まで行くと、別世界に飛び出したような感じがする。そして「ド・レ・ミ・ファ・ソ・・・」と行ってしまうと、もう戻れない。戻るに戻れないところに来てしまったのが「ソ」の音であるという説明に、私はうなりそうになってしまった。

 「ソ」はたしかに解放感を与える音である。理屈抜きに、このままどこかに飛び立とうとするかのようなイメージがわく。「ファ」もそういう浮き立った感じを与えるが、それはまだ憧憬に過ぎないところがあって、「ド・レ・ミ・ファ・ミ・レ・ド」と日常性に戻ることもたやすく、半分、小市民的なノリを残したまま人生をエンジョイしているような、安心して見ていられる範囲の躍動だ。

 ところが「ソ」になると、この世的な「ド」や「レ」や「ミ」をええいっと振り切って、一か八かの壁を飛び越えてしまったというすがすがしさと危うさを感じさせる響きになる。「ファ」の世界を満喫した者が、いやもっと今以上の自由があるはずだ、それはより本質的、根源的な自由であって、これまでの安全なところに留まってはいられない。飛び込むのはかなり怖いけれど、でも飛び込まないことには自分の人生終わらない気がする・・・という逡巡を散々やった末に、たった一度の人生だ、ままよ!と羽ばたいた時のような音なのである。

 それまで持っていたものを捨てた解放感、そして社会的なよりどころを失いつつある不安定感。でもとにかく、「ソ」に続く、ほとんど天上界のもののように感じられる「ラ」や「シ」に昇って行けるかどうかは「ソ」の登竜門を突破できるかどうかにかかっている。「ファ」までは誰もが行ける。いや、正確には、それも「誰もが」行けるわけではないが、それなりに高い意識と向上心を持って生きていれば、まあそんなに生きる死ぬの苦悩を乗り越えなくても行けるんじゃないかという気がする。でも「ソ」はそうはいかない。これは大げさに言えば、世界認識の根本的変革と、あくなき向上心・克己心と、あとは野となれ山となれという刹那主義と、それでも地球は回っていると言い切る確信と、虎穴に入って虎子を得んとする勇気と、それから、自分の人生をほんとうに愛し尊重しようとする意志が必要なのではないか。それには「縁」つまり機が熟していないと駄目というのもあるだろう。

 いずれにしても「守り」に入ってしまうと、もう次には行けない。今あるものを―物質的なものも精神的なものも―喪失したり変容することを本能的に怖れてしまうその気持ちに意識的にたえまなく打ち勝っていくことができないと、いつのまにか人は滞りの中にいることになるだろう。いくら壮大な宇宙観を持ち、もっともらしい人生訓を有していても、一日一日の暮らしの中でたえまなく訪れる選択肢にごまかしのない自分をぶつけていくのでなければ、それがいったいなんぼのもんだというのか。天上界につながる魂は、ある日突然天から降りてくるのでもなければ、本を読んだり人の話を聞いて(それも大事なことだけれど)育つものでもない。やはりどこまでも日常生活上の小さな(時には大きな)レッスンの繰り返しの末に用意されてくるものだと思う。

 だから人智学だ、精神世界だという話にはまるで無縁でも、自身に与えられた課題に徹底して向き合っている人たちの中に、ホンモノの人、一流の人はしばしばいるし、その逆もよくある。シュタイナーだ、神秘学だ、カルマだ、瞑想だ・・・とまことしやかに解説できる人であっても、その人がかもし出す目に見えないエネルギーから直接ショーゲキを受けるということがなければ、ご苦労様と言いたくなるだけだ。

 多分、私たちは誰もが一流になれる可能性を持っているのだと思う。でも先入観から、それは才能ある人だけに許された特権のように考え、自分で闘い抜くことを早々に諦めているのではないだろうか。たしかに天才というのはいるし、それは言葉のとおりに「天」が決定したことだろうから、凡才が努力して天才になれるものではないだろう。でも、才能のありなしは自分がホンモノになれるか、一流になれるかとはまた別の問題なのだと思う。自然食料理人の船越康弘さんは「ナンバー・ワンでなく、オンリー・ワンを目指そう」と話しておられたが、まさに、人と比べて抜きん出ようとするのでなく、自分という器を最大限に磨き上げるその限界に挑戦していけば、誰もが「オンリー・ワン」になって輝き得るはずだ。

 そのためには安穏とした妥協的な自分自身の精神性と闘い続けなければならない。注意深く、自分のどこに不完全さがあるかを見つけ、それを克服していかなきゃならない。自分の中に潜む先入観や臆病さ、時代や国によって制限されている固定した社会観や道徳観念から自由になっていかなくちゃならない。これはシュタイナーの『自由の哲学』のテーマでもある。これほど大変なことはないが、これほどやりがいのある仕事もないだろう。終わりがないし、完全に自己の自由意志にゆだねられている。手を抜いても、ごまかしても、誰にも責任を追及されない。強制が伴わないからこそ、自己の力量がほんとうに問われている。この作業だけでも一生なんてあっという間に過ぎてしまうんじゃないだろうか。うかうかしていたら命短し・・・である。

 ドイツ浪漫派であれ、それ以前や以降の一流といわれる芸術家や哲学者らの作品には、一律にこの徹底した真実の追究と自己の限界への挑戦の旋律が流れている。その意味で、一流のものは普遍的であり、時代も国も超えて私たちの心をつかむ。そしてその価値を感じることができるということは、間違いなく私たちの中にも一流につながる魂が授けられているということであり、私たちはどんな時にも自分の価値を疑ってはならないだろう。

 では、何のためにそんなしんどい思いを自ら好んでやらなくちゃいけないのか。そう問われれば、それはやってみなくちゃわからないよと答えるしかないが、それじゃあこれよりもっとインタレストで、刺激的で、深い充実感や達成感があって、生きてるって素晴らしいなあ、最高だなあって感じることって、この世で他に何かありますかと問い返したくなるのが、現在までの私の実感である。これよりもっと本質的で、継続して味わえるエクスタシーって何かありますか。あったら教えて下さい。私はもっともっと「ソ・ラ・シ・ド・・・」と行ってみたいのです。



2002年11月26日

初出『虔十』(2002年12月発行)

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