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第6回 転落してわかるということ

昨年10月に書いた「私とシュタイナー」という文章の中で、かつて象牙の塔の中で人生わかったような気になっていた私が、その後の転落によって多くのことを思い知らされることになった・・・ということを告白したところ、それはどんなことだったのですか? と質問をいただいた。「転落」なんて大げさな言葉を使って失敗したなあと思っていますが、私の中では実際、それなりに大きな「転変」があったには違いないんです。でもそんな、延々と人に語るほどでも・・・ということで、何をどう書いていいやら困ってしまいました。

私の子ども時代から遡って説明し始めたら、壮大にして退屈な話になってしまうので、うんと端折ってしまうけれど、要は、私は非常に観念的な人間だったなぁと振り返って思うわけです。頭の中での世界が現実の世界よりもリアリティーをもっていて、「観念世界のなまなましさ」に対して「現実世界は希薄」、そして違和感だらけで過ごしていました。それが逆転しはじめたのは、東城百合子さんの著作に出会って、足下の生活から自分を固めていくことの大切さに気付いたあたりからなんですが、決定的にひっくり返ったのは、やはり子どもを産んだことによってでした。子育てが大変なものだとか難しいものだっていうことは、そりゃあ耳にも目にもタコが出来るくらい、聞いたり読んだりして理解していましたが、実際にその大変さ、難しさの真っ只中に自分の身を置くという経験は、その大変さ難しさを頭で理解していることとはまったく別の出来事だったんですね。そして、ほんとうに自分の身になるような学びっていうものは、そういう現実の体験の中からしか得られないっていうことを実感したのです。

私のしがない人生の中にも、出会いと呼べるようなものはたくさんありました。でも私にとってとりわけ意味のある出会いは、ほとんどが本の中での出会いばっかりだったんですね。自己変革を迫られるような事件はいつも本の中で起こった。今考えれば、そういう事件が私に意味を与えたのも、やっぱり現実生活があったからに違いないんだけれど、どこかで現実生活にベールをかけて距離を保とうとしていた(意識の中でですよ)私には、そのことがはっきりとはわかっていなかったのかもしれないです。いわば象牙の塔にこもって横笛吹いて、人生を眺め下ろしているようなところがあったんですね。きっと、それでも済んだんでしょう。それに、そうやっていた方が、無理解な世間(と思っていた)との接触も最低限で済ませられるし、自分自身の未熟さ、ふがいなさにも真っ向から向き合わずにいられたんですね。そこはちょっと孤独ではあるけれど、居心地のいい場所でもあったような気がします。(そういうところに閉じこもることになったのには、また複雑な経緯があるのですが、今回の話とはズレるので省略します)。

子どもを授かり面倒を見るようになって一番思い知ったのは、自分がいかに観念的で、現実にはアマちゃんだったかということでした。頭の中で知っていたこと、わかっていたこと、私の理想主義・・・そんなものは一文の役にも立たなかった、とまでは言わないけれど、使えないなら意味がないということを思い知りました。お金も知識もそうですが、思想も理想もまた、ただ持ってるだけではなんの価値もないんですね。そして、それらを上手に使えるようになるには、どうしても人生が必要だということ、もっといえば生活が必要なんだっていうことが、次第にわかってきました。いや、それも頭ではわかっていたんですが、ほんとうに思い知った、腹に落ちた、ということです。

でも、象牙の塔が孤独だけれど居心地よかったのとは正反対に、この娑婆で生きていくのは、にっちもさっちもいかない苦労の連続ですねー。思いにまかせぬことばかりで、頭にきたり、いらいらいしたり、情けなくてもう一歩も歩けない気持ちになったり、かと思うと、嬉しいこと、楽しいこと、報われる思い、生きててよかったと思うこと・・・そんなこともたくさんあって。特にムックマムはじめ、いろいろな会やら活動に足を突っ込むようになってから、子育てと同じくらい、いやあ~~こんな大変なものかね? と思うような出来事に、次から次へと直面させられっぱなしです。物理的な大変さもありますが、それはものの数でもありません。人が集って何かをおこなうことで生じる人と人との摩擦というか、いろんな行き違い、誤解、見解の違い、感覚の違い、やり方の違い・・・。最終的な思いは一つでも、具体的に何かコトを進めるというのは、必ず困難を伴うものなんですね。そんな中で、私は自分の未熟さを知り、器の小ささを知り、能力のなさ、非力さを知り、自分でも見たくない醜態をあちこちで披露しては、落ち込んでばかりです。

「転落」してもがいていると言ったのはこんなわけなんですが、今さらながら、ああ、こんなことに手を染めなければ、自分のイヤな面や醜いところを見ずに済んだのになあって、時には悔いたりもしています。私の観念の理想は私の現実の低劣さですっかり薄汚れてしまいましたが、そのくらい脆弱なものでしかなかったということですね。こんな簡単にみすぼらしくなってしまうような理想ってなんでしょう? ただの空想だったんでしょうね。理想を理想として、現実に力を持ったものとするには、ふんだりけったりの経験つまり地道な努力が必要なんだということが、今ならようやくわかります。

私の好きな江戸時代の医者にして学者の本居宣長は“学問の方法論”を弟子らに尋ねられて、私には方法論はない、「倦まず、たゆまず、努むるが肝要なり」と答えたといいます。要するに、サボらず一生懸命やることだよ、と。私はこれを、学問に限らず何をやるにも、うまい方法論なんかない、うまく習得する術なんかない、とにかくひたむきにやるっきゃないんだと解釈しています。また近代の批評家、小林秀雄は「わかるとは苦労するということ。苦労せずにわかったというのは、ただ知識が増えたということ」と言っています。なるほど! 私がかつて観念に積み上げていたのは、苦労を伴わない知識に過ぎなかったんだ。分かるというのは、ほんとうにわかるというのは、転落してもがくことでしか得られないってことなんだ、と改めて納得です。

さらに言えば、私たちにこの現実というものが与えられているのは、実は、一人一人がそれぞれに転落して、もがいて、わかるためなんじゃないかと思います。わかるための材料を、現実生活は実に多彩にその人に応じて準備してくれているように思いませんか。さらりと格好よく生きられたら・・・とは、誰もが望むところだけれど、ほんとうにわかろうと思って生き始めたら、誰もさらりとなんか生きられないものかもしれない。なんだかそんな気がしています。そう考えて、私も自分の醜態に向き合うことに少しずつ慣れていこうと思っています。


2002/2/23

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