~暮らし・子育て・生きることを考える~ムックマムへようこそ!

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

第5回 私とシュタイナー

テロ事件とそれに続く世界の穏やかならぬ動きが巻き起こるなか、巷では愛と平和を説く声があちこちで高まっている。私のところにも平和活動をするための献金の要請がきたり、ともに祈ることを願うメッセージが届いたりした。今、世界は非常に緊張した局面にあり、日本も法案改正の案まで具体化するなど、私たち一人ひとりが真剣に向き合わなければならないテーマをつきつけられているのを感じる。

 ところが私はと言えば、ただ漠然と争いごとはイヤだとか人が死ぬのは怖いなぁと本能的に感じているだけで、この事件にどう向き合えばいいかなど、とんと分からぬまま日を送っている。そして、すみやかに平和運動を開始する人たちの心意気や行動力に圧倒されつつ世界史の文献を引っ張り出してみたりするのだが、ちっとも追いつかずに焦る一方だ。

 と同時に正直に明かせば、彼らの語る「平和」や「愛」という言葉から漂う空気がどこか気恥ずかしい気持ちを私のなかに起こさせてもいる。それは、エホバの証人と自称する新興宗教の布教員に、老若男女はもとより黒人も白人も黄色人種も、そればかりかライオンやトラまでみんな仲良しに暮らしている絵を見せられて、「こんな世界が実現したら素晴らしいと思いませんか?」と問いかけられた時の戸惑いと同じ類のものだ。素直に「ええ、そうですね」と応えられないのは、私の根性がいつのまにかすっかり擦れてしまっているせいだろうか。私のあやふやな態度を見て布教員は言った。「あなたは、今の社会が悪すぎるので、この絵ような世界が本当に実現することを信じられないんですね」。・・・そうだと思う。心のどこかで、こんなノンキな話をして回るなんておめでたい、と思っている。「でも、人々の心が変われば、本当にこういう世界が地上にも訪れるんですよ」。彼女は疑いのかけらもないまなこを向けて言った。私は、心の汚れきったイヤな大人になってしまったようで、たじたじと身を引きたくなった。

 正直に明かせば、私も心の奥底では彼らの言うとおりだと思っている。人々の心が変われば、人種も年齢も性差も越え、おそらくは獰猛な動物とだってお友達になれるだろうと思う。しかり、「人々の心が変われば」、世界中のあらゆる政治問題、社会問題、人間的問題から環境問題までほとんど解決してしまうに違いない。そればかりか一人ひとりが抱える(社会的には)ささいな問題、悩み、苦しみといったものも大部分解消してしまうだろう。だがエホバの証人に限らず、平和運動にしても、ニューエイジ思想にしても、一から十までごもっともな知識人の論説にしても、「そうだ、そうだ」とは思うものの最後のところでしっくりこないのは、「人々の心が変わる」ことの難しさを忘れているかのような語り方がなされていることにある。

 ラブ&ピースが謳われるようになって数十年が経ち、昨今は精神世界を説く本や講演、セミナーが盛んになってきた。ラブもピースも根本は私たち一人ひとりの心の問題だと気付き、世界の問題を私の問題と受け止めるようになったことはすごい進歩だと思う。ただこの認識も言葉だけが先行しがちで、知っていることとそのように生きることとは別物だというのが案外忘れられているような気がする。「人々の心が変われば」と言う時、「まずは自分の心が変わらなくてはならない。家族や隣人を愛し、自然を愛し、人も自分も認めて、批判したり、憎んだり、執着したりしないことが大切」という“結論を持つこと”は易しい。難しいのは、自身がまさにそういうふうに“生きる”ことだ。そこに目を向けていないどんな表現も雲をつかむような虚しいものに思える。

 ところで、「腹に落ちる」という表現は面白い。「頭で分かる」、「心で感じる」のいずれでもなく、頭も心も体も含めたその人の存在すべてを含み、しかも隅々まで行き渡ったということを表している。現代人はまず頭から理解しようと入っていくが、頭から入ったものをだんだん下げて行って、腹に落ちたところでようやくその人のものになったという言い方ができるだろう。ないしは胸で感じたものをあと少し下げれば腹に到着するが、そこに落とすためには一度頭に持ち上げて、自分の感じたものを整理する必要がある。シュタイナーは「思考」「感情」「意志」という3つの要素を必要不可欠としているが、真理を理解するということが頭で考えるだけでも、心で感じるだけでも、行動するだけで見えてくるものでもなく、それぞれの要素が役割を果たし、補い合わなければ、腹には落ちないことを伝えているように思う。

 そして、その人の生きる姿のなかに、その人の腹に落ちたものを測る何かがあると思う。その人の説く“言葉”ではなく、“姿”に、その人自身が映されている。まったく同じ言葉を並べても、ガツンと胸の底を打つ感動を与える人がいる一方、世間知らずのたわごとにしか聞こえない人もいるのは、そのためだと思う。結局、その人の言葉に力強さや説得力を付け加えるものは、その人の姿に他ならないのだ。

 私にとってシュタイナーは、かくのごときバイブルである。本を読む、人の話を聞く、気付きがある。そして、人生を理解したような気分になる、人にも分かったようなことを語る。でも、ちょい待て、違う。私は自分の手足や感情や現実に即した具体的な思考を使って理解したのだろうか? なけなしの経験といくばくかの知識を頭の中で整合し、もっともらしい体系をお手軽に築き上げただけではないか? 安心安全な領土でみずからの手を汚すことなく獲得したものに過ぎないのではないか? そういうことを考え始めると、もう駄目だ。自分の足元の脆弱さを隠し切れなくなり、語る言葉を失ってしまう。

 でも、私が今このように自分をいくらかでも冷静に見つめることができるのは、かつて今以上に観念の世界に閉じて生きていた自分が(当時はそうとは思っていなかったが)、その後の転落によって多くのことを思い知らされることになった経緯を持つからである。私は社会をどこかで侮蔑していた。この世的な価値観やあらゆる物質的な営みを浮世の義理でしかつきあう価値のないものと感じていた。人生の目的はもっと別のところにあるのだという予感を抱いていた。けれどもある時から、孤独だがある意味では住み心地の良かった小さな塔から、私は引き摺り下ろされることになったのだ。情けないが、私はそれまで嘲っていたこの世的なものにとことんしてやられた。プライドも、自信も、信念もずたずたに崩された。歩(ふ)を笑うものは歩に泣く、である。でも、そこからようやく、本当に知るとはどういうことかを理解し始めたのである。

 シュタイナーの繰り広げる壮大な宇宙論、神秘学の大部分は、私には確かめようもなく、判断保留にとどめるほかないけれど、彼がすべての人のために整えてくれた秘儀参入の第一歩としての、人間は何者で、いかに生くべきかというテーマは私にとって近しい。大地に降り立ち、人とともに生きること、この世でこの世のために生きること、それが純度を増せば、そのままこの世を超える次元で生きるのと同じになるということ。そして、そういう現実的なあり方だけが「思考」「感情」「意志」を具体的につなぐことのできる方法であり、人(自分)の心を変え得るおそらく唯一の道であるということを私はシュタイナーから学んだ。

 そのことは彼自身の生きた軌跡からもうかがえる。莫大な数の講演をこなし、組織を作り、建物を建て、農業だ、医学だ、教育だ、オイリュトミーだ・・・果ては彫刻を彫ったり、化粧品だか薬品だかの商売までやっている。多くの仕事をこなしたことが重要なのではなく、この世で、この世のために、この世的な仕事をすることの意味を教えてくれているように思うのだ。

 ただ、そこに貫かれている精神だけがこの世的ではない。ここを捉え間違えたら、ただの有能な実業家と同じことになってしまうだろう。(2001.10)


初出:『ティンクトゥーラ・新潟シュタイナー通信』

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。