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第3回 子どもにテレビを見せたくないわけ

 シュタイナー教育では、子ども(特に7歳までの子ども)にテレビを見せるべきでは
ないという。
シュタイナー教育に関心はあっても、テレビをまったく見せないとなると「それはうち
ではできない」「無理だ」と早々に諦めてしまう人が多い。あるいは「親子で一緒に会
話をしながら見ているから悪くない」「内容を選んで見せるようにしている」と話す人も
いる。

 私は、手作り人形や木のおもちゃを与えるのがシュタイナー教育だとは思っていな
いし、自然の中に連れていって遊ばせるのがそうだとも思っていない。いや、それは
もちろんシュタイナー的テイストではあるけれど、シュタイナー教育の本質は、“その
子をよく見て、その子に必要なものを整えてやる”ことであり、“親が自分の人生を豊
かにする努力もしないで、子どもにいい人生を送ってほしいと願うことは無理である”
というところにあると思うので、本来「うちの子にシュタイナーは合う」とか「合わない」
というたぐいのものではないと思っている。

その思想を追究しようという思いや努力を省いて、表面だけでシュタイナー教育を習
得しようとしている人は、マル・バツ式に中味をとらえて子どもの多様な現実に応用
できず悩んでいたり、「あれはドイツの輸入思想だから」とか「女の子には合うけれど、
やんちゃな男の子には無理ね」と簡単に切って捨てたりする。だけど、シュタイナー
教育はむしろエキスとして理解すべきもので、その具体的表れとしておもちゃや大
人の関わり方が示されてはいるけれど、本当のところ、その子その子によって必要
としているものが違うのだから、誤解を恐れず言えば、けっこう何でもあり・・・なのだ
と思う。
そういう感覚が私の中に大前提としてあるのだけれど、ただ、その中でもどうしても
例外を認められないと思うのが、テレビと早期教育だ。この2つだけは、どっちにどう
転んでも子ども達のためになるはずがない、と思う。早期教育についてはまた別の
機会に置いておいて、テレビについて思うところを書いてみたい。

 私自身、テレビッ子世代に生まれた人間だが、小学校4年生頃からテレビをほとん
ど見ることがなくなってしまった。きっかけは、母が入院して、私が家事・育児(当時
2~3歳の弟がいた)をこなさなければならなくなり、テレビを見る時間的余裕がなく
なってしまったからだが、母が退院してからも、一度見なくなったテレビをまた見たい
という気は起こらなかった。そしてそのまま、流行歌にも話題のドラマにも取り残され
た子ども時代を送ったわけだが、そのことで友達と話が合わなくて困ったとか、いや
な思いをしたという記憶はまったくない。わからない話は「ふ~ん」と聞いていればそ
れで済んだのだろう。

 高校を卒業して一人暮らしを始めても、もちろんテレビは部屋に置かなかった。
大学の同級生でテレビを持っていない友人というのは一人もいなかったけれど、そ
れでも私はそのことを特にどうとも気に留めなかった。自分が特別だとか変だと思っ
たこともなかった。
そして、私が再びテレビと遭遇したのは、大学を卒業して現在の夫と結婚した今か
ら12年前だ。夫はとにかくテレビッ子だった。テレビから1メートルと離れず、どまん
前で何時間も見続ける。テレビ画面の光がちらちらするのや肉声でない音に慣れ
ない私は、それだけでもマイってしまったが、何より耐え難かったのは、食事を終
えて、あれやこれやとりとめなく会話を楽しもうとしている私をよそに、心ここにあら
ずの様子で夫がソワソワし始めることだった。私が、会話を止めるといつも言った。
「お願い、○○の試合がどうしても気になるんだ・・・・。」

 最初の頃は、私も寛容な精神で「いいよ」と受け入れていたけれど、一度許すと翌
日もその翌日も同じ結果。やがては申しわけなさそうな様子もなくなってくる。それ
が原因で何度も何度も喧嘩した。その度に、夫は少し申しわけなさそうな態度に戻
る。でも、結局数日すれば同じ。これを数知れず繰り返したある日、ノイローゼにな
りかけていた私は、ついにテレビをベランダに放り投げた。これさえなければすべて
は平和になるんだと思い詰めていた。目が血走っていたかもしれない。夫は、私の
予想に反して、怒るでもふてくされるでもなく、夜中の3時だというのに、テレビを抱え
てゴミステーションに捨てに行った。あとで聞くと、そうせずにはおれない形相を私が
していたらしい。

 それからどうなったかというと、結論から言えば、夫の人生が変わった。
だらだらとテレビの前で過ごしていた時間がまるまる空いてしまえば、いやがおう
でも自分から何かしないではいられない。趣味に凝ったり、本を読んだりするよう
になり、たまたま読んだトルストイの民話の影響で人生観まで変わってしまって、
仕事を辞めることになった。それから大学に行き直して資格を取り、転職して今の
仕事になったわけだが、そのぷー太郎だった数年間は、とにかく毎日毎日、小さな
テーブルを挟んでお茶を何杯もおかわりしながら私と語り合い続けた。もともと理屈っ
ぽい私は、いつも夫を議論で言いくるめていたのだが、この数年で夫もすっかり腕を
上げ、最後には互角の理屈屋になり、私としては可愛げがなくなったな~と感じた
ものだ。

 ここまでくるとテレビとの因果関係は薄いかもしれない。けれども、その夫自身が
それ以降、「テレビは絶対に悪だ」と断言し、子どもが生まれても「見せない方がい
い」と今に到るまでずっと協力しているのだから、よほど自分の経験から思うところ
があったのではないかと思う。

 一方、私の経験。
小学生の時からテレビを見ていなかった私も、実は結婚してまもない頃、夜のニュース
番組くらいは見ようという気になった時期があった。そして、見始めて最初の数日・・・
わずか1時間だというのに、どえらく疲れた。とにかく速いのだ。私の周りにも早口の
人はたくさんいる。けれどもテレビの速さは根本的に質が違う。言葉を受け止め、整
理し、思いをまとめて相手に返す(表情なり、うなずきなり、言葉なりによって)・・・と、
こういう作業は日常的に素早くやっているものだけれど、そんな人間として正常な対
応をまるで無視したテンポでテレビは展開する。こちらは考えるヒマも感じているヒマも
まったく与えられない。これが現実の会話だったら、相手をぶん殴りたくなるだろう。
でも、それがテレビの日常なのだ。

要するにこれまでずっと現実モードで生きてきた私が、現実テンポの思考、感情の
ままでテレビからの言葉をまともに受け止めようとして、ぐったり疲れてしまったとい
うことだろう。1週間もするとこれは変わった。テキトーに聞き流し、テキトーに見流し、
1つ1つ感じたり、自分の言葉で考えたりしないというつきあい方になっていた。慣れ
たのだ。あっというまだった。こうなると、もう疲れたりしない。次から次へと流れてく
る言葉を、情報を、テレビで語っている人の言葉、思考のままに受け止める。情報は
増える。自分の中にどんどん蓄積されていく。自分で感じ、自分で考え、自分で整理
をつけるという作業を省略する習慣がみるみるついていくのが分かった。

たった1週間でこうなのだから、日常的にテレビを見ている人が、他人の言葉を自分
の言葉のように思い、他人の思考を自分の思考のように思うようになっていても何の
不思議もない。自分の全身で感じる、自分のすべてを駆使して考える・・・本当は、情
報の氾濫する現代のような時代こそ、そういう作業が真に求められているはずなのに、
現実には、どこかの誰かの論や、時代の風潮、常識、通念といったものを自分の思
考と思い込んでいる人があまりに多いと思う。

 私達夫婦の例は大人の話だが、大人がこれならば子どもの場合にテレビの影響が
どれほど大きいか、理屈を並べるまでもなく、ちょっと想像しただけで、ぞっとしない
だろうか?まして子どもは、テレビの世界が虚構だということを本当には知らない。
自分自身を振り返っても、かなり大きくなるまでテレビの世界と現実はオーバーラップ
して暮らしていた。

 そういえば今朝、曇り空を見上げて傘を持って行くかどうするかと小1の娘と相談し
ていた時、たまたま新聞がそこにあったので「じゃあ、天気予報見よう」と見てやった。
「今日は晴れだって。じゃあ傘いらないね」そう私が言うと、娘はきょとんとして「どうし
てわかるの? 神様が雨を降らせるんじゃないの?」と目をまるくしている。その時は
時間がなかったので、とにかくいってらっしゃいと追い立てたが、あとで考えてみれば、
テレビを見たことのないうちの娘にとっては、お天気は「科学」でも「情報」でもなく、
まだ「神秘現象」なのだということに気がついたのだった。


                                           2001.6.22

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