~暮らし・子育て・生きることを考える~ムックマムへようこそ!

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

船越康弘さん講演録~あなたは自分の人生をどうイメージしますか?~  【ムックマム17号より】

【今やりたい事はなんですか?】

 私は岡山で15年間民宿をしていました。ありがたい事にたくさんのお客さんが来て下さり、気がついた時には自分でもびっくりするくらいたくさんの本を書いていました。講演の方も最後のころは年間300本を越えました。ある意味で絶好調だったんですね。だけどそういう時点で全部一旦捨てました。それから 2000年問題があったんで、一切外部のエネルギーに頼ることなく完全自給の家という理想の家を作ったんですが、1ヶ月しか住まずにニュージーランドに行った。あらゆるものを捨てて行ったんです。

 何故かというと、大切な事は今何がやりたいかって事だからです。自分の存在をどこまで信じていられるか。私たちは捨てれば捨てるほど大切なものが手に入ってくる。例えば、今ニュージーランドに行ってみたいなと思うでしょ?思ったらだいたい50%叶っているんです。だけどたいていの人は行けない。何で行けないかというと、「だって」「しかし」なんです。できない理由を探すのが好きなんですね。それでどうするかというと、「私は悪くないんだけども周りの条件が整わないから行けない」。何をとっても周りの条件の責任にする。条件が変われば行けると。そうじゃないんです。条件は超えるものなんですよ。大事なのはやりたいかやりたくないか。私が常に大切にしてきたのは直感とイメージです。自分がこれしたいなと思ったらまずするんですよ。すれば後から条件はついてくる。本当にその人がやりたいと思ったら一切準備は要らないんです。準備を全部やった時には皆さん死んでいますから。準備ができた時には棺おけの準備しかできてないんです。人間は今生でやれる事は一回だけしかないですから。

 今回、私がもっともお伝えしたい事は、皆さんが自分の人生をどうイメージするかという事です。皆さん一人一人に必ず神様がついているということなんです。だから生きてるんですよ。シュタイナーの言いたいことはひとつだけ、神様がいて、神様から見れば私たち一人一人がお大切な存在なんだということです。

【イメージが体を作る】

 子どもがアトピーで悩んでるお母さんがいるんですが、「この子がアトピーでさえなかったら」って言うんです。私は「子どもがアトピーだったから学べたことだっていっぱいあるじゃないですか」と言ったんです。この子のアトピーさえなかったらという事は、アトピーで存在している自分の子を否定しているんですよ。アトピーという条件さえなかったら私は愛します。そういう気分で接しているという事は、どこかでお母さんは自分を否定しているという事でしょ。そうしたらどんな治療法をしても治るはずがないんですよ。そこが一番大事ですよ。まず許容していくということ。私たちの病気を治すのは薬でもなんでもないんです。私たち自身なんです。私たちがイメージした通りになったんです。だからシュタイナーは、まず意識が存在する。思いが存在する。この思いが気のエネルギーを生じる。その気というエネルギーが回る事によって、血が回る。そしてこの血液が回る所にこの肉体ができると言っているのです。今の治療はこの一番最後の肉体をいろいろいじくりまわすんですよね。この意識をちょっと変えればパッと治るんですが。

 わかりやすい例をひとつ言いましょう。
ある女性が10年前に重度のリウマチになりました。この女性は玄米食の指導者に指導してもらって3、4ヶ月で完治しました。その先生は非常に厳しい方で、指導の間中、陰性の物を食べたらあなたはすぐ冷える、動物性のものは血液を酸化させる、あーだこーだ…。もう山ほど脅してるんです。脅されるからこの人はほとんどマインドコントロール。治ったから食べたい。そして食べる。しかし言われているから陰性のものを食べたら手足が冷える。イメージ通りの体になるわけです。でもその人はそれがわからなかった。やっぱり先生の言うとおりだと。

 それから10年間、もうその呪縛から離れられない。それで、どうなったかっていうとご主人とうまくいかない。家の中はぐちゃぐちゃ。ここで大きな問題は、その人は玄米菜食という“正しさ暴力”で支配されたということなんです。食事をするっていう事の目標を決して見誤らないでください。私たちは健康になるために生きてんじゃないですよ。私たちは、体の設計図どおりの食べ方、生き方、ものの考え方、生活の仕方、人との接し方さえしていれば100%健康なんです。そしてどんな夢でも叶うんです。玄米菜食は手段なんです。でもその人は健康のことしか頭にない。健康健康健康…健康のためなら命もいらねえ。(笑) 笑ってますけどそんな人いっぱいいますから。

 そして、その人達は、「自分は玄米菜食で正しい食事をしている。その食べ方以外は邪食だ」と言うんです。玄米食している人は日本全体で0.1%しかいないのに、その玄米菜食をしている0.1%の人間だけが正しくてその他の99.9%は間違いだから、みんな邪なんだと。自分が知った、たった一つの理論で、それ以外の素晴らしい愛に満ちた一人一人を裁いて切ったんです。たまたま自分がそれで治ったからといって、その理論で他の人すべてを裁くなんてとんでもない傲慢ですよ。

【感謝の心をもって食事を】

 10年間リウマチで死にそうだったその人は、私の本を読みながらぽろぽろ泣けてきたんだそうです。それで私に会うためにニュージーランドに来てくれましたので、いろいろ私もお伝えしました。運動が大事だから毎日2時間ずつ歩いてもらったんですけど、下向いてしょぼーんと歩くからそんな歩き方をしないで「おいっちに、幸せだ。おいっちに、運がいい。おいっちに、健康だ」これ言いながら歩けって。言ったとおりの体になるわけですから。
 それでだんだん良くなって、帰られる前にワインとチーズでお別れのパーティをしたんです。ところが翌朝になってワインとチーズに添加物が入っていたから体の調子が悪くなかったって言うんです。ワインの後ろの小さな英語の字を全部辞書で調べたんですね。「わざわざそこまでして自分の調子が悪いのはこれだったんだって納得すんなよ」って言ってやりました。「こんな素晴らしいワインとチーズでパーティーをしていただけて、ああー私、幸せでありがたいって思え」って。そういう思いで食べて病気になると思いますか?そういうことが一番大事なんですよ。

 いろんな指導受けるのも大事、けれども目的を失わないでください。私たちは自由に楽しく生きるために食事をする。だから食事にとって一番大事なのは感謝の心を持って食事をするということです。もうそれだけで99%健康は叶っていますから。だから私の言う健康法ってのは、一切金がかからないんですよ。ハウツーでもなんでもないんです。

【夫婦の問題】

 私たちは自分自身の固有の命に気がつくために命を与えられた、という事に気がつくために病気になるんです。事故が起こるんですよ。何で事故ばっかし起こって私は不幸なのって思わんといてください。事故はその人が越えられるから起こったんです。できない宿題は絶対にないんです。そして、その自分が乗り越えるべきテーマを学ぶのに一番学びやすい相手が夫婦なんです。だから基本的には、夫婦はこの世の中で一番嫌なやつ、一番たいへんな相手と結婚するようになってます。それは私たちの選んできた事です。

 人はいいところが出る時と悪いところが出る時とあるから、決して人をいいとか悪いとかで裁かない。その人と縁があったという事を大事にして下さい。私たちはつい、自分の持っている正しさで相手を裁く。相手を裁くから私たちは不幸になるんです。でもどうしても我慢できなくて、こいつとは別れよう、もう一生付き合わないと思う時はですね、一つだけそれが許される場合があります。それは、その人のために本当に、自分の愛と誠実を出して出して出し切った、ここまでやったらいいよと自分で自分に言えたときです。これは大丈夫です。別れ時です。そこまでやってますか?自分の心に聞いてみてください。最終的には、自分は自分にウソはつけないものです。

【子どもの教育って】

 シュタイナー教育の基本的な目標は、その人にしかできないその人固有の役目に子ども自身が気がつくお手伝いをするということです。それを達成するための手段として、算数や国語を教えます。日本だったら一生懸命勉強して、知識をつけることが教育の目的なんですね。本来、子どもは四六時中知的欲求が高く、「これなに?どうして?」と言ってきます。それを「もっと勉強しろ」と、 “押し付けて強制して命令する”から、勉強は嫌なものだと思ってしなくなってしまいます。皆さんが本当に、その子の存在を信じてあらゆる物を捨てきれるかどうか。私は、シュタイナーを学んだ時に、シュタイナーが伝えたかった事はこういうことだと納得しました。
 そして子どもの教育の中でもう一つ大事な事は危険を体験させるという事です。生きるというのは危険とともに生きるということなんです。危険を避ける事って絶対にできないです。私たちが子どもに伝える事は危険を察知する勘なんですよ。

【子どもに愛の実感を伝える】

 私はいつも子どもに、「大人でも必ず間違いを起こしますよ、お前がおかしいと思ったことは注意をしてくださいよ、必ず謝るから」と伝えています。これってすごく大事な事です。まず子どもの存在そのものを認めたという事です。親が謝るということは、子どもと同じ位置に親がいる、親という権威を捨てて子どもの尊厳を認めるということです。これは“大切な事は、学校でもあらゆる地域でも、子どもがそれを発言していいんだ”ということにつながります。
 子育てっていうのは一言でいえばいいとこ探しです。シュタイナーは、人間にとってもっとも大切な教育は自然のゆったりしたリズムの中で子どもを育てる事だ、と言っています。今日と明日、少しずつ変わっていって私たちが生かされているんだというのを見せていく。子どもと散歩している時にも親が本気で感動する。親と一緒の原体験の時間をたくさん持っていると、大きくなった時に幸せを感じられます。そして自分がほんとに愛されているんだという安心感がありさえすれば、子どもは大きくなってひねくれもしないし、変な事は絶対にしない。それと、目の前でお父さんとお母さんがいつも仲がいい、これ以上の教育はないです。

【自分をまず満たす】

夜寝る時にもし「こんな私なんて」と思ったら、自分を抱きしめて、「私は私が大好き、大丈夫」って言ってください。誰を大切にする事よりも自分を大切にする事が一番大事です。「私なんて」と思ったら、その子どもがすくすくと育ちますか?まず大事なのは、私が満たされる事。私が幸せになる事。そしたら必ずそれが広がっていきます。「私がこんなにつらい思いをしているのに」と思うと人を愛せないんですよ。これが仏教でいう、「一隅を照らし、一隅を守り、万里を照らす」という事です。人を照らす事ばっかりやってですね、自分が暗くなっている人がいっぱいいるんですよ。私はまず私の務めとして奥さんと家族を幸せにする。そのためにまず、私が私の存在をどこまで許容できるかっていうことです。言うこと聞かないお子さんがどうだこうだっていう時に、シュタイナーはどうだとか言ってハウツーを学んでも、お母さんが満たされていなかったら子どもは幸せになれないです。これは間違いのない事です。

スポンサーサイト

PageTop

ヒマラヤのふもとの小さな村から ~南インド・ケララ州への旅~  【ムックマム16号より】

ムックマム13号では、ヒマラヤの豊かな自然に恵まれた小さな村での暮らしについてのエッセイを書かせていただきました。
見知らぬ土地を訪れ、異文化に触れ、そこで出会う人々や自然、次々と起こる出来事の1つ1つを受け止めながら旅を続けてゆくということは、勇気のいることですが、そこからは思いもよらないストーリーが展開してゆくものです。それは楽しいことばかりではなく、心の底から涙があふれ出る程に悲しい出来事であったりもするのです。「かわいい子には旅をさせよ」の言葉通り、その様な経験は、身をもった学びとして、人間的成長につながってゆくものと信じます。

実は、私は13号で書いた旅の3年前にも単身インドへと旅したことがあったのです。今回は、その時の体験を織り混ぜ、13号でお話したヒマーチャルプラディッシュ州の小さな村“ヴァシスト”から一家(つれあいと私、当時2才の息子)で、南インド、ケララ州、コヴァラムビーチへとたどり着くまでの道のりを記してみたいと思います。

私たちが長期滞在していた“ヴァシスト”は、温泉のある避暑地として、ヒマーチャルプラディッシュ州の中でも有名な村でした。共同浴場(温泉)は、村の入り口近くにある寺院の隣にあります。男女二槽に分かれた四角い露天風呂には常にお湯が湧き出ており、入浴料は無料なので、だれでも24時間好きなときに入ることができます。ある日本人が、「このお湯につかると自然治癒力が増すんだよ。」と教えてくれました。実は、当時2歳の息子の晃也(にこや)は、インドに入ってから移動するたびに、下痢をしたり、微熱を出したり、慣れない環境に適応するのにたいへん苦労していたのです。そんなこともあって、私たち親子も夕方や早朝、温泉につかることを日課としていました。

幼い子を持つ母親としては、炊事や洗濯、身の回りの日常をこなしてゆくだけで、一日があっという間に過ぎてゆきます。旅をしていてもやっている事は基本的に同じ。だからこそ、温泉につかれる時間は、本当に有難いものでした。おかげで晃也も元気になり、足元の草や石ころと戯れながら、三人で遠くまで散歩に出かけることもできる様になりました。また、まきストーブにくべるまきを、中庭から2階の部屋まで何回も往復して運んで、私たちを喜ばせてくれました。借りていた家で飼っている生まれたばかりの子牛とは特に仲良しで、話しかけたり頭をなでたりかわいがっては、楽しそうに遊んでいる様でした。今思い出しても、本当にかけがえのない日々を家族で過ごせたことに感謝したい気持ちになるのです。

さて、約3ヶ月に及ぶヒマラヤの山の暮らしにも、ようやくピリオドを打つ事を決意し、私たち気まぐれな旅行者は、お世話になったインド人一家と村の人々、豊かな山の自然に別れを告げ、東インド、オリッサ州のカルカッタ(旧首都)から列車で約2時間の海岸地である、“プーリー”を次の目的地としました。しかし実際に足を運んでみると下界はまだ雨季が明けきらないため、暑い上にたいへん湿気が多く、人々もなぜか険しい表情をしているように感じました。海は潮の流れが激しく、空はどんよりとした雲におおわれる日が多く、当然泳ぐどころではありません。日本食を持ち歩かない私たちにとって、バザール街やマーケットへ足を運んでは自炊しやすい材料や調味料を探し出すことは、生活してゆく上で大切な仕事だったのですが、なぜだかうまくいかないのです。それでも何とか、子供には自炊したものを食べさせようと、米や野菜を買い出してケロシンストーブに火をつけ調理してはみたのですが、たいした料理もできずに自己嫌悪におちいる始末。そんな私たちの中で晃也はもっと落ち着かなかったのでしょう。ついに体調を崩し下痢が止まらない状態になってしまいました。

夫はここで子供の安全を考えた上で帰国を希望したのですが、私はどうしても帰国する気になれませんでした。というのは、今回の旅でどうしても行っておきたい場所があったからです。それは南インド、ケララ州にあるコヴァラムビーチです。実は…何を隠そう、我々夫婦は、この旅の3年前(お互いに一人で旅をしていた頃)この海岸で出会ったのです。私のそれまでの旅の行程はというと…中国からパキスタンを旅行し、パキスタンの首都ラホールから陸路(バス)でインドの首都、ニューデリーへというものでした。今から思えば、よくもこんな大胆な旅を周囲も顧みず、やってのけたと感心してしまいます。そうして、インドにたどり着いた私は、ニューデリーのバザール街の、行き交う人々の雑踏と、喧噪の渦の中に一人ほうり込まれ、~これからどんな旅が始まるのだろう~ と一人ワクワクしたものです。一枚布のカラフルなサリーを身にまとうインド人女性がさっそうと歩く美しい姿をうっとりと眺めていたり、フレッシュフルーツの見事に並んだジュース屋の前で、作りたての冷たいジュースを一気に飲み干したりしている私がいました。

そして、見つけた一軒の安宿に部屋を借り、疲れた体をいやそうと一人横たわっていると、なぜか母の胎内にいた時の様な不思議な感覚を味わっていました。~ここは何て居心地の良い場所なんだろう~ そうして私のインドの旅は始まったのです。

その後北インドはベナレスやスリーナガルにも足をのばしたところで、ようやく南インド、ケララ州、コヴァラムビーチへと移動することになりました。ケララに来て、豊かな自然とおいしい食べ物、やさしいインド人たちとの出会いの中で本当にリラックスした気分の時でした。まさか、この時は“マコト”と名乗る目の前の青年(今はすっかりオジサンですが)と帰国後再会し、結婚して子をもうけ、再びこの場所を訪れようとは夢にも思っていませんでした。

コヴァラムビーチの魅力は、白い砂浜とエメラルドグリーンに輝くアラビア海の美しさにあると思います。別名“サンセットビーチ”といわれる程に海に沈む夕日の美しい海岸で、私は夕方になると海辺の小高い丘に登っては岩場に腰かけ、真赤に燃える夕日を眺めていたものです。この海岸を少し歩けば、やしの木のおい茂る林の中、ココナッツの実がたわわに実っています。そんな中に民家や、外国人向けゲストハウスが点在しているのです。そういえば、バナナやパパイヤの木も多く、フルーツ売りのインド人のおばさんたちが籠にいっぱいフルーツを入れて、私たち旅行者のところへ売りにきては高い値段をふっかけられたこともありました。また、ケララの食べ物は世界中で一番おいしいという人もいるくらい、日本人の口にもよく合うし、種類も多く値段も手ごろです。例えばサンバルという野菜カレーは、地場の野菜をふんだんに使ったサラサラのカレーで、本当にさっぱりとしたくせのない味です。マサラ・ドーサは、米紛で作った生地をクレープのように大きく焼き、その上に香辛料のきいたポテトをのせ、くるりと巻いて食べるスナックでたいへん人気の高い食べ物です。また、イドゥリと呼ばれる雑穀を蒸して作った円盤型の小さなパンは、少し酸味があって、サンバルと一緒に食べると、もうやみつきになりそうです。また一般にケララ州は、インドの中でも教育水準が高く、キリスト教徒の割合が比較的多いせいか、英語が通じやすく、西欧的な洗練された雰囲気を感じさせます。

そんな恵まれた環境のコヴァラムビーチに訪れれば、晃也もゆっくりと療養ができ、必ず元気になるだろうと安易に考えていましたし、ぜひもう一度、今度は家族で訪れてみたいという思いがあって、どうしても帰国するわけにはいかなかったのです。

結局数日後、晃也の体調が落ち着いてきた頃を見計らって、私たちは旅立ちました。カルカッタから昼過ぎ出発の夜行寝台特急に乗って、翌朝南インドの大都市マドラスに到着。そこで別の列車に乗り換えてケララ州の州都、トリヴァンドラムで下車。真昼の太陽がまぶしく、また、整然と整った街並みが印象的でした。通りの両脇に立ち並ぶココナッツの木が陰となり、地面の明暗をくっきりと二分していました。そして更に南へ車で一時間、ココナッツの林をいくつも通り抜けて、ようやくなつかしいコヴァラムビーチへとたどり着くことができたのです。

(18号へつづく)

PageTop

ヒマラヤのふもとの小さな村で 【ムックマム13号より】

以前、私はインドのヒマラヤ山脈の南に位置するヒマーチャルプラディッシュ州の山岳の中の小さな村に長期滞在した経験があります。温泉のある避暑地として有名なその村は、晴れればヒマラヤの雄大な山々を一望できる豊かな自然環境に恵まれたところです。厳しい暑さと湿気に悩まされる下界とは程遠く、空気が澄んでとても過ごしやすい村でした。縁あって、あるインド人一家(夫婦と子ども5人)の一室を借りることができた私達一家(つれあいと当時2歳の子ども)は、まきストーブで暖をとり、町のマーケットへ通っては米や野菜、小麦粉などを買い込んで自炊する生活を始めました。これという目的も持たずにただゆったりとした時間の流れの中で、土地の人々と触れ合い、この土地の暮らしを体験してみたい、そんな行き当たりばったりで気まぐれな旅人だった私ですが、そんな暮らしの中で発見したことを、思い返して書き連ねてみたいと思います。


その土地は農業が主たる産業で、多くの自給自足に近い暮らしをしている人々は、麦の収穫期になると、それぞれの麦畑で麦を刈り入れ、牛の背にたばねて乗せ、家まで運んで庭で脱穀をするのですが・・・・、私の借りていた家でも、子ども達とお母さんで収穫してきたどっさりの麦が中庭にばらまかれ、主にお母さんが2~3頭の牛の尻を棒でたたいて中庭をぐるぐる回らせて脱穀していました。2階に部屋を借りていたので、渡り廊下からその風景をじっと見ていると、まるでタイムトンネルをくぐって、戦前の日本の稲作を垣間見たような不思議な気持ちでした。そうこうして、とれた麦を共同の粉引き場で粉にし、その全粒粉を丸い平焼きパンにしたものがこの土地の主食でした。以前から自然酵母のパン作りに興味のあった私は、この家の娘さんにパン種(天然酵母)の作り方を聞いてみたのです。彼女は快く承知してくれました。さっそく台所に行って自家製のパン種を入れておく素焼きの壺を持ってきて、英語まじりの身振り手振りで作り方を教えてくれたのです。
それは当時の私には驚くほどにシンプルなものでした。
まず、壺の中にひとにぎりの全粒粉と、棒で溶かしてかき混ぜられる程度の水を入れます。それを毎日かきまぜて3~4日すると、空気中の野生酵母の力でプクプクと発酵してくるのです。これを元種にしてパン生地をこねるわけです。ちなみに日本に帰って、このやり方で天然酵母作りに挑戦してみたら、みごとに失敗に終わっています。空気の力で小麦粉が発酵するわけですから、パン作りがいかに土地の自然環境と結びついたものであるかがわかります。ヒマラヤの山々から来る幽玄な“気”が、この土地のパン作りにも大いに影響しているのだと思います。たぶん日本でも豊かな自然に恵まれた空気の澄んだ場所であれば、十分発酵すると思います。そして、その土地でしか味わえない素朴な味わいのパンが焼けるに違いありません。

パン種作りを教えてくれた彼女は、また台所へ行って「これを食べろ」と自家製のパンを1枚私達に分けてくれました。まきストーブでこんがりと両面焼かれたそのパンは、言葉では言い尽くせないくらい素朴で、味わい深いものでした。
インドの習慣では、違う階級(カースト制)の人とともに食事をしないので、外国人である私達は違うカーストとされ、残念ながらともに食卓を囲むことはできませんでしたが、彼女の説明では、このパンはうずら豆(日本の金時豆を少し小さくしたもの)入りのカレー(香辛料だけで作った自家製)につけて食べるのだそうです。このカレーも試食させてくれたのですが、本当に豆だけのサラサラしたカレーで辛くもなく、家庭の味ってこんなにいいものかあーとすごく感動したのを覚えています。この地方のパンと豆のカレーは、ちょうど日本ではご飯と味噌汁のように食の基本パターンだったわけです。
今も、米こうじの力を借りて、天然酵母のパンを焼き続けている私にとって、このインドでの体験は、私の体の中で生き続けている気がします。


このように土地に適した農業を営む中で収穫した作物を調理していただく、ということは時間も手間もかかるようだけど、そうすることが当たり前で、暮らしそのものが食と大きく結びついているようでした。それは貧しいどころか、自然のリズムで生きる人々の力強さ、豊かさを感じます。


日本は飽食の国と言われて久しいですね。
最近では、日本の伝統食を見直そうという動きが目立ってきました。講演会に行くなり本を読むなり外側から教えられることも大切なことだと思います。なぜなら飽食に慣れ、本当に食べたいものは何か、自分の内側から感じ取ることができない人々がとても多くなってきたと思うからです。
私自身について言えば、食に限らず、いろんな面で複雑化した日本にいて、本当の自分自身を見つめ直したくて、インドにまで旅立ったわけです。たしかに悠久の時間の流れに身を置く中で、この紙面では書き尽くせないくらい多くのことを学ばせてもらいました。


話をこの村の暮らしに戻したいと思います。この村では、どこの家庭でも機織り機があり、山にいる羊の毛を刈って糸につむいだもので織物をしていました。お父さんや子ども達(男の子)の着るコートやマフラーや帽子などは、女性達が手作りしていたようです。また女性達の衣装はというと、羊毛で織ったたいへんカラフルな一枚の毛布のような布を一本のヒモを使って、うまく体に巻きつけていました。パットゥと呼ばれる民族衣装で、これは家庭では織られていなかったようです。
この衣装に憧れていた私は、この家のお母さんからたいへん高額だったけれど、思い切ってこの布を手に入れました。娘達が巻き方を教えてくれ、一枚の布が衣装に変わっていくのがとても不思議でした。ただ、ズボンやセーターの軽装に慣れた身には少し重たくも感じました。


ところで、私がこの村で一番好きだった場所は、共同洗濯場です。
石段の多いこの村では、家も坂の上に建っていることが多く、7~8軒で一つの集落を成していたと思います。家から石段を降りて行ってすぼまった所には、共同の洗濯場があります。大きな四角い石で囲まれ、大きさは四畳半くらいだったでしょうか。水道のような蛇口はなく、石と石の隙間2~3ヶ所から一日中水が流れています。朝9時頃ともなるとカラフルな民族衣装を身にまとった女性達10人くらいがそこに集まって洗濯を始めます。石を洗濯板にしてごしごし洗ってはすすぐ、という手作業をしながら、大きな声で何やらずーっとしゃべっているのです。地元の言葉なので私にはよくわからないけれどそのにぎやかなことといったら日本の主婦の井戸端会議どころではありません。でも同じ女性として、こうやって他愛ないことをしゃべりながらごしごし洗濯するというのは、単純に楽しいものです。皮膚の色も服装も言葉さえも違うけれど、笑顔だけは絶やさずに洗濯していた私を仲間のように受け入れて、場所を譲り、水を使わせてくれる彼女達のふところの深さに、自然にいだかれて生きる人々の素朴なやさしさを感じました。
日本では、ボタン一つで脱水までしてくれる全自動洗濯機が出現して久しく、多くの人々が手早く洗濯をすませることができるようになりました。でも、あの村では今も女性達はカラフルな衣装を身にまとい、洗濯場に行ってはかん高い声を響かせ、いそいそと洗濯に興じているのでしょう。


コミュニケ―ションの場としての地域がなくなりつつある日本の現状からは程遠いあの光景が、とてもまぶしく心の中によみがえります。戦後の高度経済成長期に成長を共にした私があの村の平和な人々の暮らしから学び得たものは大きかったと思います。出逢った人々、雄大な自然、すべてに手を合わせたくなるくらいです。
今の私の生活はというと・・・家族とともに豊かな時間を持ててはいると思うのですが、何かと忙しくなりがちで、ゆったりとした時間の流れに身を置き、本当の心の声に耳を澄ます時間を持ちたいと願う日々です。

PageTop

わたしのおっぱい論考 【ムックマム12号より】

前回、特集で子どもの食生活を扱いましたが、その際、紙面の都合もあって書ききれなかったのが母乳のこと。そこで、今回は母乳をテーマにしてみたいと思います。
この記事は小林が自らの経験と観察と勉強によって整理をつけたものですが、とにかく子どもによって、親によっていろんなあり方があり、"固定した"最善の方法というのはないと思っています。
どうぞ、基本ラインを押さえつつ、しなやかに、おおらかに自分流の母乳育児を一人一人が築いていってくださいますよう・・・。

生まれてから


 生まれてすぐに始まる食事は母乳ないしミルクです。本来牛の子が飲むものであるミルクより、母乳の方がすぐれていることは、いまさら強調するまでもないと思いますが、ただ母乳が順調に出ない場合ミルクに頼ることもやむをえない場合もあるでしょう。ただその場合、「いつかは必ず母乳オンリーにするんだ」という執念を捨てないことが何より大事だと思います。そして、病院や
保健婦さんに示されるミルクの量や体重の基準値というのにこだわり過ぎないことも大切です。
赤ちゃんは自分にとって必要な量を自分で知っています。
飲む量が少ないからといって心配しすぎないように。そして、あくまで母乳につなげるためのミルクであって、基本は、一日に何回でもおっぱいを吸わせること。吸わせれば吸わせるだけ、おっぱいは生産されます。それでも親子ともにくたびれ果てるようなら、要所要所でミルクを補って、親子ともにほっと一息ラクをして、また次へつないでいけばいいと思います。
「一滴のミルクも飲まさない」と意地になることはありません。でも、「ミルクでもいいや」と安易な方に流れてしまってもまずいでしょう。

与え方

 おっぱいをあげるタイミングは、保健所の指導、桶谷式、山西式といろいろありますが、どれも参考程度にして、最後はその子を見て決めるのが一番だと思います。離乳食が始まる前の小さな赤ちゃんは、基本的にほしがる時にあげるというのでいいと思いますが、大きくなってくると、単なる空腹からほしがるのでなく、甘えてほしがることも出てきます。そういう時におっぱいを与えるか、与えずに他の方法で愛情を表現するかは、親の考え方次第ではないでしょうか。
この時の選択は、後に断乳あるいは卒乳の仕方、時期に関係してくるようです。一般に、泣けば与える方式でやっていくと、断乳の時期を遅くして子どもが納得した上でとなるか、何日か泣くのを乗り越えてというパターンになることが多いようです。
逆に、小さいうちからおっぱいを与える時間あるいはタイミングを生活のリズムの中で決めていてそれ以外の時は基本的に与えないという方式だと、離乳食が進むとともにおっぱいの回数も減って、比較的らくに、自然に卒乳できることが多いようです。

 回数を減らしておっぱいの間隔が空くと乳質が落ちるという説もありますが、これも個人差や食事の内容の違いによるところが大きく、順調な場合、子どもの飲む量が減ると生産量も減り、たまり乳(おっぱいの中に生産過剰の母乳がたまって品質が落ちること)になるということもないようです。
理論にとらわれず、子どもの様子とおっぱいの状態を自分でよく確認しながら、母乳生活を進めていくのがいいでしょう。

卒乳

 卒乳の仕方についても人さまざまで、桶谷式の場合、最後までずっと3時間おきの授乳を続け、二本の足で歩けるようになったら断乳という方法を取ります。よく話して聞かせ、おっぱいに顔を描いて、飲みたがると見せ、「もうないないよ」などと説明します。断乳後はぐっとお兄ちゃん、お姉ちゃんっぽくなり、親子ともども感激という話をよく聞きます。
山西式では7歳とか10歳までのいつかにやめればいいでしょうという考え方で、比較的長く、3歳4歳まで与えて、子ども自身が納得して自分からやめる時期を待つというパターンが多いようです。
私自身は、いつやめるのが一番いいのかという結論は出せませんが、離乳食の食べ方を見て、ご飯を喜んでしっかり食べ、特に身体的、精神的に問題が見られないなら、その頃より以降はいつやめても大丈夫ではないかと考えています。

我が家の場合

ちなみに我が家の二人の子の場合は、離乳食を始めた頃から、おっぱいを与える時間(各食後と昼寝前、夜寝る前、夜中)を決めておき(これは、子どもの生活にリズムをつけるためにしたことですが)、次第に離乳食が進むと食後のおっぱいはなくてもいいようになってきたので、お昼寝前と夜寝る前、夜中だけにやっていたのですが、そのうち昼寝は抱っこやおんぶで寝かしつけるようになり、そうこうするうちに夜中も起きる日と起きない日が出てきて、最後は夜寝る前、私は姿を消してお父さんに寝かしつけてもらうようにしたら、いつのまにか自然に卒乳していました。
おっぱいもそれに応じて順次生産されなくなったので、卒乳後も張って苦しいということもなく、ケアも必要ありませんでした。

私としては、自然のからくりというのは、なんてうまくできているんだろうと感嘆した次第です。
子どもの成長と親のおっぱいの衰退は本来自然に一致するもので、理論に従って3時間おき授乳や定期マッサージをする必要があるのかと個人的には思っております。昔のおっかさんのことを考えても、そうではないかと思います。
しかしながら、そこらへんも各人でさまざまな事情があるものなので、一概に何がいいとは言えないと思います。

くり返しになりますが、基本は子どもを見て!!
知識・情報は大事なお助けになりますが、そちらが主にならないようにお気をつけ下さいませ。

PageTop

子どもの遊びは心の表現 【ムックマム12号より】

子どもにとって遊びは、大人の遊びとは違い、単に暇つぶしではないようです。母親ならば自分の子どもの遊びの様子から、その子どもの性格や気持ちを感じることはできると思います。まだ言葉を充分に使いこなせない子どもにとって、遊びは心の奥を表現する大切な手段でもあるでしょう。わが子の場合でも、とても印象深い出来事があります。

現在6歳になる娘は、2歳半の時、先天性の病気のため手術をし、2ヶ月近くに及ぶ入院生活を経験しました。けれども、とても元気に、嬉しそうに退院してきたわが子の姿を見て、私は心からほっとしたものです。

ところが、翌日からの子どもの遊ぶ姿を見て、私は思わず家事の手を止め、その場に呆然と立ち尽くしてしまいました。
わが家には、子どもが入院する少し前に完成した、主人の手づくりの木製キッチンと棚があり、ピンクの布をかけて屋根にした、シュタイナー幼稚園のようなお家があります。入院前はその空間の中で、おままごとをしたり、人形たちと仲良くほのぼのと遊んでいたのですが、退院の翌日から、私の作った赤ちゃんのお人形やミッキーちゃんの体中に楊枝を刺し、木製の熊にバンソコをペタペタ貼り付けるという遊びを始めたのです。いくらのんき者の私にも、子どもの心の傷がどんなに深かったのか、この様子を見てはっきりと感じ取れました。

こんな遊びを、娘は毎日朝から晩までニヤニヤしながら楽しそうにしていました。そして、それはほぼ3ヶ月間続きました。しかし、こうやって遊びの中で自分の心の傷をしっかりした形で表現することによって、それは少しずつ癒されていったのかもしれません。本来なら母親がもっとしっかり子どもを抱きしめ、心の傷を癒してあげられれば、3ヶ月も続かなかったのかもしれません。それを思うと、後から母親としての自分の未熟さに心が痛んだものです。ともあれ、この人形を切り刻むという遊びが子どもの傷を癒してくれる助けとなったとしたら、子どもにとって遊びはとても重要なものだったと言えます。

話はそれますが、プレイセラピーという遊びの療法があります。これは、入院中の子どもの心の痛みを、遊びを通して癒していくというものです。あと数時間の命の子どもがおもちゃを次々と運んで、仲間たちに囲まれ、楽しそうな様子をすると言います。また、子どもの心が癒されると、その免疫力が高まり、治療効果が上がっていると言われています。

日本の病院にはプレイセラピーはとり入れられていませんが、スウェーデンでは40年も前から行われています。大きな病院の小児科には必ずプレイセラピー科が設けられており、そこには専門に学んだプレイセラピストがいるそうです。プレイーセラピー科の空間にはおままごとコーナー(木製の机やいすや台所が置かれている)や水遊び用の部屋、大工仕事のできる部屋、おもちゃのカルテやレントゲンのおいてあるコーナーなどがあります。また、キッチンではクッキーやパンが本当に焼け、流し台の下はがらんどうになっていて、車椅子でも食器洗いができるように工夫されています。壁に取り付けたドールハウスは奥行きがないので車椅子の子どもでも遊べますし、重症の子どもにはプレイセラピストがワゴンでおもちゃを運びます。そしてベッドの上でケーキの粉をまぜることもできます。中庭には季節の花が咲き、菜園もあります。

私の子どもが入院した大学病院にもプレイルームというのがありましたが、そこはテーブルとエレクトーンとテレビと絵本が置かれてあるだけの殺風景な狭いスペースでした。それでもそのプレイルームで娘は入院中、午前中の2時間くらい他の子達と一緒に保母さんに遊んでもらっていました。

そして、手術をした翌日、息をするのも苦しいという状態でしたので、「今日はやめようか」と私が言うと「行く!」とはっきり言ってどうにか車椅子に乗り、プレイルームに向かいました。そして、じっとただうつむいてその場に座り、他の子が遊ぶのを見ていたということがありました。やはり、子どもにとって遊びは、大人が考えている何倍も重要で、深い意味があることなのではないかと思います。

ところで先ほどのプレイセラピー科の空間ですが、その写真を見ると、おままごとコーナーといい、屋根のある空間といい、保育室のカーテンの使い方といい、私が見たシュタイナー幼稚園にとても似ていて驚きました。プレイセラピーにおける遊びの考え方も、シュタイナー教育の考え方とほぼ一致しています。

実のところ、私はわが家のピンクの屋根のある家は「かわいい~」という軽い気持ちで主人に作ってもらいました。しかし、子どもが寝入った後、このお家へ入ってみると心が落ち着き、穏やかになっていくのを感じます。心が落ちつく環境の中、遊びという形の中でのびのび心の奥を表現できた子どもの魂は自由で、進むべき方向に育っていくのかもしれません。そういったことを考えると、“たかが子どもの遊び”と思わず、私達母親も家事や育児に忙しくはありますが、時には子どもの遊んでいる姿を観察することも大切なことなのかもしれないと思います。

Minako.S

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。