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第15回 本当は誰もがインクレディブル

 話題のアニメーション映画『Mr.インクレディブル』を見に行った。空を飛び、馬鹿力をふるい、手足がどこまでも伸びるといった能力を持つスーパーヒーローと呼ばれる人たち。彼らは、かつてその特殊能力を使って、世助け・人助けで大活躍をしていた。警察も手こずるギャングを易々と捕まえ、ビルから飛び降りた人を間一髪で助ける。かと思うと一人暮らしのお年寄りのために飼い猫を捕獲してやる。大きなことから小さなことまでなんでも解決。政府も大いに助かっている存在だった。ところが、やむをえぬ事情からスーパーヒーローが社会正義を名目に活動することが法律で禁じられてしまう。そこで彼らはその素性を隠して一般市民として暮らし始めるのだが、それから15年・・・。


 ミスター・インクレディブルは保険会社の営業マン。ところが、困っている人についつい保険金を与え過ぎては会社の営利を顧みないと上司に叱られる。人助けを生き甲斐とする彼が、金、金、金で、目の前の人の幸不幸に鈍感になることを求められ、生きた屍のように仕事をこなして妻子を養っている。
 結婚相手のミセス・インクレディブルもまたかつてのスーパーヒーロー。現夫とともに数々の戦いを勇敢にくぐり抜けてきた女性だが、今では中学生から赤ん坊までの3人の子育てに追われる普通のママ。一般人として社会に適応することを心がけ、夫や子どもたちにもそう仕向ける。そうでないと今の時代では生きていけない、許されていないのだからと。


 その2人の間に出来た長女のバイオレットは、だらりとたれた前髪の隙間から大きな瞳を片目だけ覗かせている陰気な中学生。自分と自分の家族の「変」さ加減を恨み、「普通になりたい、恋がしたい」と訴えるが、好きな男の子とは口もきけない。顔を隠し、自分を隠し、時には姿も隠してコンプレックスのかたまりで生きている。
 長男のダッシュはやんちゃ盛りの小学生だが、特殊能力の発覚を恐れて悲願のスポーツはずっと禁止され、もてあました能力はいたずらに使われるばかり。おかげで校長からの呼び出しとママのお小言の繰り返しの毎日だ。


 こうしてインクレディブル一家は、赤ん坊を除いてみんな「変」な人たちである(実はこの赤ん坊も特殊能力の持ち主であることは最後に分かるのだが)。「変」であることを世に隠し、「普通」を装って生きているのは結構つらい。自分の持ち味であり、才能でも魅力でもあるものを押し殺し、否定することは、自分が自分であることを諦めることにほかならないからだ。だがここでふと思う。私たち一般人だって、実はほとんどの場合みんなこうして自分を押し殺し、普通を装って生きているのではないだろうかと。そうでないと生きていけないから。裁かれてしまうから。裁かれる?誰に?世間一般という漠然とした、だがこの上なく巨大な抗しがたく思われる「力」に。


 そして私たちもまたコンプレックスのかたまりの中で、自信を喪失し、いじいじと他人を羨んで生きていないだろうか?私なんてどうせこんなもんだからと自分に枠を作り、家族がいるから、社会が許さないからと理由づけをいっぱい作って、うっぷんをいたずらにぶつけるくらいならまだしも、生きた屍になってただ機械的に毎日を送っていないだろうか。


 ミスター・インクレディブルは時折、かつてのスーパーヒーロー仲間と警察の無線を盗聴しては、身を隠したまま事件を追いかける。世助けしたくてうずうずしているのだ。けれどももちろんこのことは家族には内緒にしていた。ところが打倒スーパーヒーローを目指すスーパーヒーローもどきの青年との戦いに巻き込まれてしまい、結局、奥さんがそれを助けに行くことになる。スーパーヒーローの衣装をつけた途端、昔の勘を取り戻した奥さんは、たまたまついて来てしまった長女バイオレットと長男ダッシュの持てる能力を信じ、勇気を与え、愛をもって励ましながら共に戦う道を選ぶ。そして苦戦しながらも最終的に勝利を収めた時には、4人がそれぞれに新しい自分に生まれ変わっているのを見ることになる。いや、正確に言うならば「新しい」ではなく、「本来の」自分になっていたのだ。


 自分の持てる能力が大いに役立ち、愛と勇気が実を結ぶのを自分自身の中で体験したバイオレットは、幽霊のようだった片目のヘアスタイルをやめ、髪を耳にかけて顔をしっかり出すようになった。そして、チアリーダーとして活躍するチャーミングな彼女に、ついに、かつて眺めるだった片思いの男の子からデートのお誘いがかかる・・・。
 ダッシュも、生まれて初めて自分の能力を存分に発揮する機会を持てたことで、人間としての余裕が生まれる。目にも止まらぬ速さで走ることができるにも関わらず、短距離走の大会では上手に2位を勝ち取ってそれで満足することができるようになったのだ。


 どんな「変」な傾向や能力の持ち主であっても、自分が自分であることを認められ、自分らしさを発揮できる場を持つことができると、人間は社会に適応でき、また社会のために自分を奉仕しようとするものなのかもしれない。
 考えてみれば、私たちは誰もがインクレディブル(ありえない)能力をそれぞれ持った存在なんじゃないだろうか。それはいわゆる「役立つ」能力ではないかもしれない。勉強に役立つ、社会に役立つ、仕事に役立つ、家事に役立つ、そういう能力だけを私たちはとかくまっとうな「能力」として認めがちだけれど、私たち人間には計りがたい、もっと大きなところで役に立っている能力がこの宇宙には無限にある。山河草木から石ころまで、すべて意味があってそこに存在しているのだから。


 そういう視点から見ると、私たちの持つどの性向や感情や力が、どこにどう生かされ、働きかけているかは私たちが合理的に把握しきれるものでなく、ただ私たちがこうしてここに生命を受けているという事実そのものが既にインクレディブルで、私たちはそのすごさを受け容れ、徹底的に自分の命を肯定し切って生きていくしかないんじゃないかと思うのである。


 自分を受け容れられない理由はいくらでもある。道徳や世間体が「もっといい人」になることを要求してくるし、社会常識が「こんなことをしちゃいけない」と歯止めをかけてくる。「もっとこうでなくちゃならない」「こう感じちゃいけない」エトセトラ、エトセトラ。自分が心の底で感じていることまで否定し、歪曲し、自分でない何かに自分を合わせようと必死で繕って生きている。だから命が萎縮してしまう。


 本来ならすべての命が輝くはずなのに、命の宿る心と体がその命を否定して生きているから、何かが病んでくる。体が病む人、心が病む人・・・。そして病んだ者同士が徒党を組んで、その窮屈な枠をくぐり抜けて生きようとする人の足を引っ張り、批判し、自分たちの正当性を確立すべくさらなる強固な社会常識を作り上げてゆく。つまらないことではないか?こんなことは何もかもやめて、さっさと「変」な人になってしまった方がいい。「普通」でいる必要なんかどこにもない。その「変」さに徹してしまった時、インクレディブル一家のように、自己肯定感と自信と魅力と愉しさと平和と自由が一気に実現されるだろう。そう、一人ひとりの存在の中、命の中で。

2005年1月12日

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第14回 子育てもホリスティックに

 ひまわり歯科の鈴木公子先生よりご指名に預かりました小林あゆみです。公子先生はじめ角家純子さん、大塚誠之輔先生らも仲間である、学校給食と子どもの健康を考える会の新潟支部の事務局をやっています。支部の代表は関原芳夫先生。こちらの「友達の輪」に登場している人達がたくさんいますね。ちなみに埼玉支部の代表が黒沢誠人先生です。ご縁が深いのを感じます。

 この会の全国代表は『粗食のすすめ』でヒットを出した管理栄養士の幕内秀夫さんですが、幕内さんの説く食生活は、世にあまたある「○○式」とか「○○健康法」といった類のものではなく、誰もが純粋に合理的に勉強していけば辿りつくはずの日本の伝統食です。よく考えれば当たり前で単純なことなのですが、日本という土地で日本人という種族が生き残るにふさわしい食事は、当然、歴史の中でふるいにかけられてきたものに違いありません。時代によって変化していくものではあっても、いきなり現代栄養学という理論で切って貼ったようなものが馴染むわけがないのです。だって人間も自然の一部なのですから。

 ところが現代人の長所でもあり落とし穴でもある知性のおかげで、私達はこれまた、伝統食といえば理論的にああでこうでと頭で考えて食べ始めてしまいます。伝統が途切れてしまっている以上、それもやむを得ないのですが、本来、人間の体は自分に必要なものを知っているはず。塩分が足りなければ塩辛いものが欲しくなり、過ぎると水分を摂りたくなる。そんな誰もが経験のある単純な現象からもわかるように、その時その時、必要なものを必要なだけ要求するように体は出来ているんですね。

 それがわからなくなってしまった理由はいくつか考えられます。一つには今言った、頭で考えすぎる傾向。それから本能を狂わせる飲食物を毎日摂り過ぎていること。現代の食生活で最も注意したいのは砂糖と油だと思いますが、これらを摂り過ぎていると、もはや体の声に耳を傾けることはできません。しかし哀しいことに、今の子ども達のほとんどはこの状態です。

 先日、しっかり伝統食をしている家庭のお嬢さん(小学3年生)の笑えないけど笑っちゃう話を聞きました。我が家もそうですが、食生活に気を遣っているうちの子は、たまによそでいただく豪華なお菓子やご馳走に目がありません。彼女も例にもれず、お友達のお誕生会でその日は普段食べないご馳走にジュース、ケーキ、おやつ・・・とたっぷりいただいてきました。さらに、その家には遊ぶものといえばゲーム機しかなく、みんなで順番にゲームをして帰ってきたそうです。

 ところが、いつもは活発で動きのいい彼女が、うちに帰ってくると「今日はだるくて動けない。お手伝いもできない。何もする気がしない」と言って畳でごろごろしてしまったそうです。いつもは食べないものを食べ、いつもはやらないゲームに熱中して、調子が悪くなっちゃったんですね。
驚いたのはそのあとです。しばらくすると、今度はいきなり立ち上がり、「このまま寝ちゃったらダメになる。私、走る」と言って、座布団を重ねてその上で駆け足を始めたというのです。ヘンになってしまった体や心を調整しようとその子なりに考えたのでしょう。結局、30~40分走って納得したそうですが、座布団の上で大まじめに走っている9歳の子どもの姿を想像すると、可笑しいけれど、笑うに笑えないものがありますね。

思うに、今の子ども達は、本当はみんな彼女のように走りたいのではないでしょうか。走って自分の中の不健全さを調整したいはずだと思うのです。でも自分の中で起こっている異常さが慢性化していて、もはやヘンだとも感じられなくなっているのではないでしょうか。彼女の場合は不快や不調という形で異常を感じ、それを解消したいという欲求が起きてきたけれど、毎日のようにスナック菓子、アイス、ジュース、牛乳、そして油と砂糖の多い食事をし、さらにテレビ、ビデオ、ゲーム漬けという生活では、体や心が深いところで感じている欲求不満(本来必要なものが満たされていないことによる)に気付くこともできなくなってしまいます。これは子ども自身にとっても苦しいはず。でも、その苦しさを表現できず、自分の中に溜め込んでいるような気がします。

ノンキなのは親達で、そういう生活を子どもに与えておきながら「だらだらしている、やることをやらない、勉強しない、手伝いしない、物を大事にしない、食事をちゃんと食べない、病気ばかりしている・・・」とこぼしています。子どもがそうなってしまうのは当然なのに、自分に原因を見つけられないでいるのですね。

そんなわけで学校給食と子どもの健康を考える会では、子ども達の食環境がもっといいものになるようにと運動をしています。食は体を作るものであるとともに心の基盤でもあり、安定した生活を築いていくもとともなるものだからです。食をきちんと押えていれば、すべてがおのずから整っていくからです。

ところで、私が関わっている他の活動に、『ムックマム』という会報の発行があります。これは自然派のお母さん・お父さん仲間で発行している情報誌で、「子どもが育つ環境を考えよう」というコンセプトで5年前に始めました。食の問題をはじめ、遊び、暮らし、心、環境、教育、医療、代替療法、社会問題など幅広く扱っています。
この世のすべての事象が子どもの成長に関わるものである以上、大人達が広くさまざまな問題に関心を持ち、目先の事象を超えた物の見方と地に足ついた思考方法を持つことは大切という思いから、『ムックマム』の子育ても、まるごと全体=ホリスティックを目指しています。ホリスティック医学というのは、本来、肉体も精神も霊も含めて人間が存在し、過去世も死後も含めた自分という認識に立つところから始まるものと理解していますが、子育てもまた、肉体・精神・霊のすべてを育むようはからい、前世から来世にわたる中での今現在の子どもという視点を持つことから始めたいと思うのです。『ムックマム』はまだまだ未熟ですが、そうした視点に立ちつつ、現実の具体的な一つひとつの問題に対して真剣に考える場になるよう努めています。

学校給食と子どもの健康を考える会、『ムックマム』についてお問い合わせのある方はご連絡下さい。 小林あゆみ


※ワールドホリスティックHP http://www.wha-japan.com/ の「友達の輪」のコーナーに掲載分

2003年10月1日

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第13回 本当の感謝って? ~七夕の日に祖父が逝った~

 七夕の日に祖父が亡くなった。入退院を繰り返していたし、もう九十になろうという齢だったから、連絡を受けた時も特に驚きもしなかった。それより「明日の夜までに帰って来なさい」の父の一言で、私の頭はすぐに、新潟から高松までの帰省とその間の子ども達の面倒のことでいっぱいになった。でも、その頭の片隅に小さな悔いが存在しているのを意識しないわけにいかなかった。

 実は2ヶ月前のゴールデン・ウイークに、弟の結婚式で私達一家4人も挙式に出席するため1泊2日で実家に帰っていた。結婚式前日に到着し、その夕方、入院中の祖父を見舞うつもりで私も下の娘を連れて父の車に乗り込んだ。駅に到着する兄夫婦を迎えに行って、その足で祖父の病院に寄ると聞いたからだ。ところが車の中で父と私の口論が始まった。父と私は子どもの頃から相性が悪く、世間でよくある父と娘の微妙にして微笑ましい関係とはおよそかけ離れた関係しか持っていない。なさけないことに不愉快な思いをしないで一緒にいられることの方が珍しく、喧嘩はいつものことだった。

 この時も私の苛立ちは加速度を増し、父は頑なに自己弁護する一方だった。やがて平静心を失った私は大声で怒鳴り出し、蹴飛ばすか、力の限りぶん殴ってやりたいという衝動を抑えるのがやっとになっていた。父はへらへらと私の非を述べ立て、私は屁理屈をこねて怒鳴り散らし、横で聞いていた5歳の娘は黙りこくっていた。やがて片道3車線の大通りで信号待ちになり、父の車は中央車線に停車した。私はすかさず車から降りた。子どもを抱きかかえ、そのサンダルを片手に持ち、ハンドバッグを肩に提げて。自分のサンダルも半分脱げかけたままだった。

 車の間を通り抜けて歩道に渡り、歩き始めてから思い出した。神戸から訪ねてきていた伯父夫婦が私達の車のすぐ後ろをついて来ていたのだ。一瞬、恥しいところを見られてしまったと思ったが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。
こんな下らないことがあったおかげで、結局、私は祖父を見舞いそびれてしまった。翌日は朝から結婚式に出掛け、終わるとそのまま高松を発った。様態からしてそう長くないと知っていただけに、新潟に帰ってきてからもずっと気になっていた。普段は冠婚葬祭以外で帰省することもない。まして父とも口もきかないまま別れ、当分顔も会わせたくなかった私は、祖父と生きて会えることはもうないかもしれないと落ち込んでいた。

 そして、7月7日に思った通りのことになってしまった。けれども今さらどうすることもできない。複雑な思いがよぎるのを振り払うように、私は葬儀の準備をして慌しく高松に向かった。到着した時には納棺もお通夜も終わった後だった。親戚が集まって静かに夕食をとっていて、黒尽くめの服の中、着いたばかりの私の服装は浮いていた。新潟から高松は遠い。とんとんとうまく乗り継いで行ったけれど9時間かかった。祖父はもう棺に納められ、姿を見ることもできなかった。

とはいえ、私の中にある祖父の想い出もまた、ろくなものではなかった。4歳から19歳になる直前までの15年ほど一緒に暮らした祖父だったが、何ひとつかわいがってもらった記憶がない。毎年お年玉をもらったとか、そういうことはあっても、愛情というニュアンスで受け取った憶えのあるものは何ひとつないのだ。憶えているのは、私のことを批判し、皮肉り、あざけり、叱り、憤り、最後にいつも「母親の教育が悪い」と締めくくっていた姿だけである。私はよほど性悪で、かわいくともなんともないクソ孫だったのだろう。そして恩知らずで、感謝を知らない子どもだったのだと思う。でもとにかく、私の中ではうんざりするような切ない記憶しかよみがえらないのだ。高校を卒業して離れて暮らすようになっても、祖父を懐く思い出すようなことは一度もなかったし、会いたいと思ったこともない。せいぜいが「離れていたらゆるせるもんだな」くらいの余裕が生じてきたくらいのものだった。

これは祖母に対しても同じだった。祖母は7年ほど前に先に亡くなったが、この時の葬儀のこともよく憶えている。この時は、納棺の時から出席していて、固く動かなくなった祖母を清めて棺に納めながら、私はぽろぽろと涙をこぼしていた。葬式でお経を上げている時も、火葬場での最後の別れの時も、一緒に育った従妹とともに何度も泣いて、泣いて・・・。おかしな話だった。私はほんとうに哀しかったのか?今でもよくわからない。自分の涙がほんものだったのかどうかよくわからない。それがよくわからなくなる根拠は、実はもう一つ別の葬儀の記憶があるからである。

それは義理の祖母の死で、今から十年以上前、結婚して1年半たったばかりの頃だった。義祖母は新潟にいて、私達夫婦は当時、東京に暮らしていた。会ったことも2~3回だったと思う。それなのに私はわんわん泣いたのだ。ほとんど何の思い入れもない人の死であれほど泣けた自分を思い返すと、単純なもらい泣き以上の何かが私を動かしていたことに思い当たる。義祖母の死にしても、実祖母の死にしても、私はけなげで情の深い孫を演じたかったのかもしれない。それとも「死」はそれまでのすべてをリセットして、いかなるマイナスの記憶も、そればかりか何の記憶もないところにも、敬虔な気持ちと離別の哀しみを引っ張り出してきて、涙でそれを証明すべきものという観念が私のどこかにあったのだろうか。いずれにしても、あの時の涙は、嘘ではなかったと思うが、吹けば飛んでいく安っぽいものでしかなかった気がして、今さらながら二人のおばあちゃんに申し訳ない気がしている。

 このたびの祖父の葬儀の際には、2ヶ月前の悔いをひきずっていたわけだし、一番泣いてもよさそうなものだった。けれども、かつてよりは自分の中のうさんくささを嗅ぎ分ける能力をいくらか習得していた私は、最初から、ほんとうの意味でごく自然にしていようと決めていた。祖父には個人的にはなんの感謝も恩義も感じていない。楽しかった想い出も、戻りたい過去もない。これが私の内面の現実なのだ。これが正直な気持ちである以上、どうして無理にないものをかりたてて哀しみや感謝の気持ちをひろげ出す必要があるだろう?私は親族だからここにいる、ただそれだけだ。

そう開き直っていたから、私の気持ちはいたって冷静だった。哀しみに暮れることもなければ、哀しみを求めて自分の心の中をひっかき回す必要もない。ただ淡々と親類縁者の集まりに参加し、わずかにゴールデン・ウイークに会えなかったことの非を心の中で詫びているだけだった。「これでいいんだ」と心から思った。自分の等身大の心情に沿った表情でいる自分に満足していた。

 ところが、である。最後の最後に思いがけない展開があった。それはもちろん自分ではまったく予想外のことだった。
葬儀が済み、これから火葬場へ運んで行くという時、「これが最後の見納めとなります」と棺のふたが外され、会場に飾られた幾多の花々が参列者の手に手に渡された時、私はようやく対面した祖父の顔を見た途端、まったくいきなり「おじいちゃん、ありがとう」という素直な気持ちが心の底から湧き上がってくるのを感じたのだ。ほんとうにそれは思いがけなく、自分でも驚いてしまったが、その抑えがたい感情に身をまかせながら、突然あふれ出した涙とともに、夢中で祖父の棺の中に花を納め続けた。おじいちゃん、ありがとう、ありがとう・・・、一緒に過ごした15年をありがとう、この世で私のおじいちゃんとして存在してくれてありがとう、ありがとう、あなたと出会えてよかった、ありがとう、ありがとう・・・。

それは、これまでに私が得てきた美しい道徳性に関する知識から自分の感情を組み立てていったものではなく、身内への愛や情や感謝することの美徳を意識的に自分に仕向けることをやめて、あえてむき出しの薄情さのままでいることを自分に許したところからひょっこり顔を出した、埋もれてはいたけれどまぎれもなくほんものの感情だった。自分の中に、祖父に対してこんな感情が片鱗でも存在していたとは意外だったが、もし、私がこの葬儀に自分の内面の現実をごまかさずに向き合っていなければ、この喜ばしい感情を表に出してやることもできなかったに違いない。

その意味で、私は自分の開き直りを評価することができた。感謝を忘れるな、感謝すべきであるという箴言は、いろんな機会にいろんな形で飛び込んでくる。実際、物の豊かな時代に生きる私達には時々思い起こす必要のある大切な心掛けだ。ただ、思い起こすことと、ほんとうの感謝ができるようになることとは別である。「感謝」「感謝」と朝晩唱えてもほんとうの感謝ができるようになるものではないし、むしろ本心では別のものを望み、違った道を求めているのに、感謝という一言で自分の心を偽りの色に塗り染めてしまう過ちを犯している人がどのくらいいることかと思う。

暴言を吐くようだけれど、感謝なんかしなくていいと私は言いたい。感謝も恩も忘れて、もっとありのままの自分の気持ちをつかんで放さずにいるべきだと言いたい。それがどんなに低俗でも、不道徳でも、等身大の自分でいることから出発しないことには、表面だけの感謝、表面だけの善人、表面だけの平和に生きて、ほんとうの自分は押し込められてあえいでいるのに、それに気付きもしない人生を歩みかねないと思う。自分が正直に感じていることを把握するのは難しく、それを受容するのはもっと難しいけれど、世間的なつじつま合わせの成功者である「いい人」になるよりは、偽りのない人になる方が、生きていて自由で気持ちいいような気がしている。


2003年8月13日


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第12回 田口ランディ「コンセント」を読む

 人に紹介され、なんとなく読んだ一冊だったが、なかなか面白かった。朝倉ユキという主人公は東京に住む独身の女性だが、仕事仲間だろうと行きずりの男だろうと来る者拒まず寝る女である。仕事は株の相場についてコメントするというものだが、金には興味がない。ミステリアスでひょうひょうとしたキャラクターに思えるが、ちょっと重い子ども時代と異常なと形容できる学生時代を背負っている。

 ストーリーは彼女が兄の死を知らされるところから始まる。兄は子ども時代から社会になじめないところがあり、中学生になると母に暴力を振るい始める。大人になっても外に出て働くということは出来ず、家族の中でお荷物として存在していた。それをユキが東京のアパートに引き取って更生を試みたのだが、結局はユキもやがて兄を見捨てるような形になってしまう。そうして失踪した兄は、自分で借りた都内のアパートで緩慢な自殺ともとれるような死に方によって静かに生を閉じたのである。そして、その部屋の中には、コンセントにつながったままの掃除機が置いてあった。

 ユキはこのコンセントにこだわり続ける。そこに兄の生と死を説く鍵があると直感し、その謎解きの過程でいろいろな人物に出会っていく。いや、再会していくと言った方がいいだろう。学生時代にカウンセリングの実習を受ける中で異常な性愛の仲となった国貞という教授。十年ぶりに彼のカウンセリングに通い、彼とのいまわしい記憶がよみがえる中で、兄の問題とシンクロした異様な夢をくり返し見続ける。一方、その同じキャンパスで同級生であった本田律子というシャーマンを研究する女性とも再会し、いわゆる合理主義者だった律子が霊的な問題をテーマにしている姿に驚きを覚える。また、律子の紹介で、やはりもと同級生である精神科医山岸峰夫とも会うことになる。

 この山岸という男性は、トランスパーソナル心理学の畑で活躍している人物である。トランスパーソナル心理学というのは超心理学とも訳され、平たく言えば、超常現象を認めた上で人間の異常な行為や心理を研究する分野である。朝倉ユキはこれまでこうしたオカルティックなものは認めずに生きてきた人物だ。本田律子に霊能力者を紹介された時も、「これまでの私だったら笑ってとりあわなかっただろう」と語っている。だが、人にはそうした超常的なものを受け入れずにいなくなる「時」というのがあるのかもしれない。律子が友人の発狂と自殺をきっかけに受け入れていったように。

 ユキは、兄の死によって「コンセント」というキーワードをつかんだ。そして、コンセントとは、社会とつながっていくためのエネルギーとなる外的刺激を取り込む装置であるということを理解してゆく。人はコンセントから取り込むエネルギーによって社会と協調し、感応する力を得る。だが、特異な感受性のためにこの世で生きることに極度の困難を覚える人間にとっては、コンセントから流れてくるものは苦痛を増やすだけだ。むしろコンセントを抜いてトランスしてしまった方が本人は至福にいたることができる。外からは自閉と見えるその状態も、本人にとっては解脱の境地の体験なのだ、と山岸は説明している。

 薬にも酒の力にもよらず、自由にトランスしてしまえる才能を持つ人々がいるという。兄もまたそうであったのではないか。あちらの世界にひたっているのを習慣とするうちに、やがてこちらの世での生が軽く軽くなっていき、さしたる無理もなく自然にあちらの世界に移って行ったのかもしれない・・・・・・とユキは考えるに到る。兄の死の姿はそのことを伝えているのではないかと。

 こうして生前の兄のことを、その兄の静寂な死を理解していく過程で、ユキ自身のこれまでの世界観、価値観も大きく揺るがされてゆく。これまで社会のお荷物、落ちこぼれとしか見ていなかった兄が、まったく異なった様相で浮かび上がってくるのを見たためだ。

それに、兄が亡くなって以来、何度となく自分の前に現れる兄の亡霊。それは亡霊とか幽霊と呼ぶにはあまりにリアルでなまなましく、何かの錯覚とはとても思えないものなのだが、その現実をうまく受け入れることができない。また兄の死体があったアパートに残る死臭を嗅いで以来、死をはらむ人から漂うかすかな死臭を嗅ぎ分けられるようになったことへの困惑。律子の語るシャーマンの話や発狂した友人の話。精神錯乱や妄想には科学で計れない意味があるという山岸の話・・・・。

すべてはユキの「時」を狙って、まるで予定されているかのように次から次へと、あるいは同時に降りかかってくる。ユキを追い詰め、問い詰め、それまでの常識的な世界認識のままでいることを許さない状態に追い込んでゆく。それはまるで発狂直前の人間の体験のように。そしてついにユキにも訪れるのだ、その「時」が。それは非常に烈しく極端な形でやってくる。

律子の説明によれば、沖縄のユタがユタになる前段階として非常に錯乱した精神状態を通過する。警察に通報されて即刻病院送りとなるような錯乱状態のことだ。だが沖縄には、そういう神懸りになった女性には特別の使命があるとして、受け入れてしまう伝統がある。そうして錯乱の後、人々を癒す仕事に就くのである。律子のかつての友人もある時発狂し、強制入院させられ、薬漬けにされた後、自ら命を絶ってしまったのであるが、彼女が住んでいたのが東京でなく沖縄であったら、どういう顛末を辿ったであろうか。これが律子の転機となった出来事である。だが律子は頭でしか理解していない。自分の理解を自分で信じきれていない。そこを越えるにはもう一つ、大きな出来事あるいは根本体験を通過しなければならないのだろう。

ユキの大転換は、老人の幽霊を追って思わず降りたバス停からさ迷い歩くうちに起こる。「カイタイセヨ、カイタイセヨ」幻聴だか何だかわからないものに捉えられ、その声から逃げるように町中を駆け抜ける。「カイタイセヨ、カイタイセヨ」だが、逃げ切れない。最後の最後まで自分の理性にしがみつき、自分自身の解体に抵抗しようと試みるが、もう逃げ切れない。皮膚感覚が変容し、この世のあらゆる振動を拾い集めるようになってしまう。制御することもできない。

その無数の振動の中に兄を見つける。兄の周波数にチューニングすると、ようやく兄の置かれていた生を実感することがかなう。それは世界のすべての振動が、感情が自分の中に止めようもなく流れ込んでくるおそろしい生の状況であった。兄が生前コンセントを時折抜かずにいなかったことも、やがて完全にコンセントを抜いて生きることをやめてしまったことも、今のユキには何の不思議もなく理解できた。

やがて蓄積された記憶の断片が怒涛のようにユキの中に流れ込んでくる。父に打ち殺された犬のシロ、俯いたまま流し台に向かう母の背中と首筋の細さ、言葉の毒を吐く父、鉛色の兵舎のような学校、子ども達のありとあらゆる感情が渦巻く教室・・・・これは兄の視点である。ユキは、兄の視点は愛の視点であったと理解する。

狂おしい体験。兄との一体感。世界中の感情が無防備に入ってくるその苦痛に耐えかねて、ユキもまた自分のコンセントを抜く。そして、静謐な無の世界が訪れる。肉体を離れて純粋な意識として漂い、そうしてついに世界を理解したと感ずる絶頂に達する。
兄だけでない、世界との一体感。世界とのセックス。あらゆる震えと感応することができるようになったユキは、もはや正常な精神状態ではない。すべてを捨てることの快感と至福の恍惚にさらされ、ユキはつけている指輪も、時計も、洋服までも脱ぎ捨ててしまう。公園の片隅ですっ裸になって高らかに笑う女の笑い声はいつまでも止まなかったろう。
最後のぎりぎりの瞬間に、ユキの解体を予測して「何かあったら俺の病院に来い」と暗示をかけていた山岸に携帯電話をつながなかったら、間違いなく精神病者として強制入院、薬漬け、社会復帰困難というルートを辿ることになっていたに違いない。

さて、錯乱状態が治まったユキが果たすことになった社会任務あるいは使命とは何であったか? ここが田口ランディならではの、読者をニヤッとさせるか、げげっと嫌悪をもよおさせるか、理解に苦しませるかという一筋縄でいかない結末・・・・・・彼女の個性的テーマの見せどころだ。
ここで私達は注意深くならなければならない。世界と一体になりあらゆる振動とシンクロすることができるようになったユキが、おそらくあらゆる現象をあるがままに善悪・優劣をつけずに受け止めることができるようになったと同じように、私達もひとたびこれまでの世界観や価値判断というものを捨てて、この結末を読み取らなければならないだろう。そうでなければ、ランディがユキという主人公を通して私達に体験させようとした解体というものの奥義を取り逃してしまう。ユキの解体、ユキの錯乱、ユキの悟りは私達にとっては疑似体験でしかないが、小説というものが私達に貴重な時間を割かせるに値するものになるとしたら、それは、読み手が登場人物の体験を無私になって追体験してみることによるしかないだろう。

ユキは現代のシャーマンとなった。律子は「シャーマンも時代とともに進化しなければならない」と語っていたが、ユキが担った役割は、外面的には娼婦という職業である。一万円という安値でマンションの一室に男を通し、男に生きる力、生命の振動を与える。躊躇する男の服を脱がしながら「可笑しくて仕方ない」という朗らかさの中で、女性の陰部は世界のエネルギーの供給口であると話して聞かせる。弱った男達を癒し、勇気づけ、生きる力を与えてきたでしょうと。そして自分のコンセントに男のプラグを差し込みながら、この男に私は何を与えることができるだろうかとわくわくしている。

神聖娼婦というものが古来から神社仏閣等に存在していたというのも、不特定多数の相手に体を売るという行為から私達が受ける印象だけからは想像のつかない深い事情がこの現実にはあるからだろう。セックスという淫靡とも神秘ともとれる行為を通して繰り広げられることは、私達が埋没している日常感覚からだけでははかりしれないのかもしれない。私達は「売春」という言葉の響きだけで、それをいかがわしいものや不幸なものとして早々に判断を下してしまいがちだが、さてその根拠と理由を説明しろと言われると、意外に理路整然とは答えられないものである。

このちょっとセンセーショナルな結末によらず、この小説に出てくる様々な断片は、私達を日常性や既存のモラルの中に安住させておかない。社会の役立たずだった引きこもりの兄こそ愛の視点を持ち続けた存在であったこと、精神錯乱と見まがう悟りの瞬間、売れっ子教授の変態性・幼児性、完璧な理論体系を持ちながら自分で信じていない研究者、何の罪悪感もなく複数の男と寝る主人公・・・・。

ユキの聞いた「カイタイセヨ」の声は、読者への呼びかけでもある。私達の意識が所有するものすべての解体。価値判断、モラル、常識、社会通念、安っぽい良心、世界認識、エトセトラ。私達が無意識のうちに所有しているこれらのもののうち、果たしてどれだけが、究極の必要性という篩(ふるい)の目に残ることができるだろう?

私達は、社会の秩序や平和という概念とも整合した自分自身のモノサシを作りあげることが得意である。何事かにこだわりを持っている人は持っている人なりの、持っていない人は社会常識というモノサシを持っている。そして、この価値観の枠組みのために、私達はお互いに窮屈で、生きにくい社会を作ってしまっているように見える。より良い社会という同じベクトルの理想を持つ者同士が対立し、友情を求める者同士が陰口をたたきあう。

これだけ価値観の多様化した現代にあって、誰とも同じ価値観を共有するとか、違った価値観を理解し合うというのは事実上無理なことであろう。ならば、それでもなお自分の理解の及ばない状況や行為に対して、自分のモノサシで計ろうとすることはどういうことになるのか?

生きて暮らしていく以上、判断や選択はたえまなく必要なものであるけれど、融通のきかないモノサシは人の世を生きにくくするばかりでなく、自分自身をも狭い世界に押しとどめてしまう。それは時折自分を苦しくする。朝倉ユキのような劇的「カイタイ」は望むべくもないけれど、私達もまた日常性の中から小さな「カイタイ」を指向し、真の意味での自由というものを手にしてゆきたいものである。


2003年7月15日
初出『虔十』(2000年12月発行)

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第11回 天職と宿命について ~映画「伊能忠敬」を見て~

 3月に映画『伊能忠敬』を見た。伊能忠敬なんて立派な日本地図を作った人・・・くらいの予備知識しかなかったけれど、思いの外、ガツーンとやられて帰ってきた。加藤剛扮する伊能忠敬は50歳までは百姓として過ごしている。50の時に少し早めの隠居宣言をし、それから本格的に学問を始め、74歳で亡くなるまで延々と日本全国を歩き続けることになった。だが、考えさせられるのは、本人は当初こんなつもりではなかったということだ。彼は日本地図を作ろうなんて志を持っていたわけではない。途中で何度も何度も「もう止めよう」と思いながら、それでも遂にかくなる人生を歩んでしまったのである。天才というのは、天にとっつかまって背負わされた才能という意味で、周りが思うほど本人にとってはありがたいものではないのかもしれない。

 そもそも忠敬の夢は、当時まだ確定していなかった子午線を世界で一番に発表するということにあった。そのためには正確な地図を作成する必要がある。そこで忠敬は江戸中を歩きまわり、複雑な計算をし、確認作業を繰り返してそれを作り上げた。子午線も割り出した。その数字は後に、驚くほど正確なものだったことが証明されるのだが、当時は認められない。通説とされていた数字から掛け離れていたからだ。そこで専門家に、もっと広範囲の正確な地図を作成する必要があるとアドバイスされる。そこで忠敬は歩き続ける。やはり子午線の数字は変わらない。でも、認められたのは子午線でなく、その地図の驚くばかりの精密さ、正確さだった。

 そこで、開拓と征伐のために必要だった蝦夷地の地図の作成依頼がお上から降りてくることになる。数名の補佐をつけてもらったものの何の保証も報酬もないまま、それでも喜んで出掛けて行った忠敬。そこでの彼の仕事に向かう姿勢は、ただただ「よりよき地図」を完成したいという意思のみに忠実なものだった。数知れぬ困難も労苦も、大きな目的の前では、ごちゃごちゃ言ってる場合ではない小さな問題になってしまう姿が浮かび上がる。映画としての脚色はもちろんあるが、概して、偉大な仕事に身を投じる人間に愚痴など言っているヒマなどないものだ。

 蝦夷地の地図作成は2回にわたって行われ、仕上がった地図はやはりあまりに出来がよく、そこから先は、次は東海道、その次は西日本、そして九州・・・という具合に終わりなき依頼が続くことになる。老齢でもあり、途中で子午線のたしかな数字が西洋人に先を越されたことを知り(それは忠敬が出していた数字とほぼ一致していた)、もう地図を作る必然も欲求もなくなる中、お上からの依頼は続く。「これが最後」「これが最後」と思いながら測量の旅を続ける忠敬の胸の中には、「自分はなんのためにこんなことをやっているのか。測量の技術は既に若い者たちに伝えた。何故、私が行かなければならないのか」という思いが何度となく駆け巡ったであろう。

 だが技術は伝わっても、仕事に向かう精神性までは容易に伝わるものではない。依頼する側は、その違いが仕事のレベルに決定的な差を生むことをよく知っているのだ。「あなたに頼みたい」と言われるその真意を、忠敬自身も次第に理解したはずである。老齢、専門外、家族の反対・・・そんな常識的な判断を捨てさて、「自分がやるしかない」と腹をくくらせたところには、やはり宿命と呼ぶほかない力が働いていたと思う。

 この映画の自主上映に関わった主催者側の男性が「伊能忠敬は中年男の夢、憧れです」とステージで話していたが、たしかに50歳から始めてもここまで大きな仕事を成し遂げ得るという事実は、私達にはかりしれない希望と勇気を与えてくれる。努力への意志とエネルギーも呼び起こしてくれる。ただ私達凡人はいつも見落としてしまうのだ。天につかまった人間に背負わされた苦悩の烈しさ、試練の重さを。老境のふちにあって今さら名誉心から日本中を歩きまわれるものではない。家族を捨て、恋人を捨て、孤独と非難を甘んじて受け容れながら測量を続ける忠敬の心の内は、想像にあまりある。非凡な精神には、いつか常識的な「善」を捨てていかざるを得ない局面が訪れるものだ。そこを乗り越えられる精神だけが、天の仕事に殉死できるとも言えるのだろう。

 忠敬の作り上げた地図は、誰もが仰天するものに仕上がった。全て忠敬亡き後のことだがこの地図にまつわる逸話はたくさんある。例えば、日本の技術の高さを知らせたくてイギリスにこの地図を複写して送った人物は、日本の最重要機密を他国に知らせた咎で投獄されてしまった。だが、その地図を見たイギリス人はやはり非常に驚いて、その地図をずっと大事に仕舞いこんでいた。それでも西洋諸国に秘密裡に出回り、明治維新の幕開けとなったペリー率いる黒船4艘が浦賀に来た時、測量の技術者が1日沿岸付近を調査してその地図が高レベルの確かなものであることを確認したことで、野蛮な戦略でなく紳士な近づき方をすることになった・・・などなど。どの話もあり得ることだと思えるのは、忠敬の日本地図を私も実際に目にして、これはタダモノではないと衝撃を受けたからかもしれない。

 それにしても、与えられた仕事はどんな条件下でも手を抜かず1つ1つきっちり仕上げていくという単純で当たり前なことに、どれだけ価値を見出し、実行できるかによって、人は思いがけず大きく分けられてしまうものだと考えさせられる。「この世に雑用はない、雑に用を済ませればそれが雑用になるのだ」と言った人物がいたが、昨今主流の「君はなんの仕事がしたいのか」と、まだ何もしたことのない若い人達に愚問を投げかけるようなことはやめて、どんなことでも目の前の仕事にきちんと向き合うことの意味を先に教えてやるべきだろう。天職とか宿命というものは、そうしたところから自ずから拓けていくものなのだから。


2003年4月26日

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